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【木】

 *関連項目→〔切れぬ木〕

★1a.神が、木から人間を造る。

『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)(スノリ)第9章  主神オーディンと彼の兄弟たちは、海岸で見つけた二本の木から人間の男女を造り、息・生命・智恵・運動・顔・言葉・耳・眼・衣服・名前を与えた。男はアスク、女はエムブラと言い、この二人から人類が生まれた。

★1b.神が、木を人間の背骨にする。

『コタンカラカムイの人創り』(アイヌの昔話)  神様が土で人間を造った時(*→〔土〕1)、柳の枝を背骨として土に通した。人間が年をとると腰が曲がるのは、背骨の柳が年老いて曲がるからである。 

★2.世界をささえる木。 

『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)(スノリ)第15章  トネリコの大樹ユグドラシルの枝は全世界の上に広がり、天上に突き出てそびえている。三つの根が樹を支えて遠くへのび、一つはアース神たちのところ、一つは霜の巨人のところ、一つはニヴルヘイムの上にある。

★3.生命に関わる木。

『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)(スノリ)第49章  世界中のあらゆるものが、「オーディンの息子バルドルには危害をくわえない」と誓う。そのため、射られたり、斬られたり、石を投げられたりしても、バルドルは傷つかない。ところが宿り木だけが、「若すぎる」との理由で誓いをしていなかった。一人の女(ロキの変装)にそそのかされたヘズ(ホズ)が、たわむれに宿り木をとってバルドルを射る。バルドルは死ぬ。

*生き肝を木に懸ける→〔生き肝〕2の『今昔物語集』巻5−25。

*丸木と同じだけの寿命→〔体外の魂〕1の『変身物語』(オヴィディウス)巻8。

★4.遠くからは見えるが、近寄ると見えなくなる木。 

『源氏物語』「帚木」  光源氏は空蝉に逢おうと、紀伊の守邸を訪れるが、彼女は姿を隠してしまい、捜し出すことができなかった。光源氏は、「帚木(ははきぎ)の心を知らでそのはらの道にあやなくまどひぬるかな」の歌を、空蝉に贈った。「帚木」は、信濃国の園原にある、帚(ほうき)を逆さに立てたような形状の木で、遠くからのみ見え、近づくと見えなくなるという。 

箒木(高木敏雄『日本伝説集』第4)  丹後国何鹿郡の御千嶽の頂上に、「スーヲ木」という一本の大木がある。この木の影が海に映って漁の邪魔になるので、漁師たちが木を伐りに山へ登ると、木が見えない。不思議に思って海へ帰ると、いつものように木の影が映っている。御千嶽は低い山だが、頂上に「スーヲ木」が立っているおかげで、向こうの松尾山とあまり違わぬ高さに見える。だから御千嶽の神様がこの木を惜しんで、伐られないように隠すのだ。

★5.縁結びの木。

『愛染かつら』(野村浩将)  愛染明王を本尊とするお堂の傍に、かつらの木がある。恋人どうしがこの木につかまって誓いを立てると、たとえ一時は思いどおりにならなくても、いつか必ず結ばれる、という言い伝えがある。医師・津村浩三(演ずるのは上原謙)は、看護婦・高石かつ枝(田中絹代)を連れて木のそばに行き、「高石さん、嘘だと思ってこの木にさわってくれませんか」と言い、自分の思いを訴える。

★6.子授けの木。

『現代民話考』(松谷みよ子)9「木霊・蛇ほか」第1章「木霊」その1の10  淡路一宮と崇められる伊弉諾神宮の境内に、県指定天然記念物の夫婦大楠がある。地上一メートルくらいの所から二本に分かれており、子宝に恵まれない人がお参りすると授かるといわれる。イザナキ・イザナミの結婚の時の「天のみ柱」がこの大楠だといい(*→〔周回〕1の『古事記』上巻)、今でも夜中に男女が大楠を左右から廻って出会い、イザナキ・イザナミの故事を真似るという(兵庫県)。

★7.形を変えて生き続ける木。

『花咲か爺』(日本の昔話)  隣の爺が、正直爺の愛犬シロを殺し、榎樹(えのき)の下に埋めた。正直爺がシロをしのんで、榎樹で臼を作って搗くと、たくさんの餅が出てくる。隣の爺が臼を借りて搗くが、犬の糞が出たので、怒って臼を焼く。正直爺が臼の灰を持ち帰り、枯れ木にまくと花が咲く。

*エデンの園の木が、イエスの十字架に→〔十字架〕1の『黄金伝説』64「聖十字架の発見」。

*高原の木が、町の電信柱に→〔電信柱〕2の『サザエさん』(長谷川町子)朝日文庫版・第26巻76ページ。 

★8.木を植える。

『神仙伝』巻6「董奉」  董奉は、人々の病気治療に従事したが、薬代を取らなかった。代わりに、重病が治った者には杏(あんず)の木を五本植えさせ、軽い者には一本植えさせた。これを数年続けると、十万余本の杏林(きょうりん)になった〔*この故事から、医師を「杏林」という〕。

★9.木を引き抜く。

『水滸伝』(百二十回本)第7回  魯智深が、ならず者たちと酒を飲んでいると、鴉がカアカア鳴き出した。「鴉が鳴くと悶着が起こる」との俗信があったので、ならず者たちは災い除けの呪文を唱える。「柳の木の上に、近ごろ鴉が巣を作り、毎日やかましく鳴く」と聞いて、魯智深は柳の木に抱きつき、根こそぎひっこ抜いてしまった。

★10.木にはさまれる。

『古事記』上巻  八十神(やそかみ)たちがヤガミヒメに求婚するが、ヤガミヒメは「私はオホナムヂ(大国主命)に嫁ぐ」と言う。怒った八十神たちは、大樹を切り倒してくさびを打ちこみ、その中にオホナムヂを入らせる。くさびを引き抜くと、オホナムヂは木にはさまれて死んだ〔*そこへオホナムヂの母神が来て、オホナムヂを蘇生させる〕。

『日本霊異記』上−1  雄略天皇の命令をうけて、少子部栖軽(ちひさこべのすがる)が、地上に落ちた雷を捕えた(*→〔落雷〕3a)。後に栖軽が死んだ時、雷を捕えた場所に墓を作り、「取電栖軽之墓(いかづちをとりしすがるがはか)」との碑文の柱が立てられた。これを見た雷は怒り、碑文に落ちかかるが、柱の裂け目にはさまれてしまい、再び捕らえられた〔*天皇は、「生之死之捕電栖軽之墓(いきてもしにてもいかづちをとりしすがるがはか)」との碑文の柱を立てた〕。

★11.盆栽。

『SR(ショート落語)(桂枝雀)  ○「見事な盆栽ですなあ。どうです? この腕の曲がり具合なんか」。 ×「いやぁ、なかなか大変なんですよ。どうしても初めは動きますからなあ。人間は」。

 

 

【木に化す】

★1.人間が木に変わる。

『変身物語』(オヴィディウス)巻1  アポロンが、河神ペネイオスの娘ダフネ(ダプネ)を恋して追いかけた。ダフネはアポロンを拒み(*→〔矢〕5)、我が姿を別のものに変えてくれるように父神に祈って、月桂樹に変身した。

『変身物語』(オヴィディウス)巻10  父親と交わって懐妊したミュラは、荒野をさまよったあげく、没薬の木と化した→〔誕生(植物から)〕1

*女が空桑に化す→〔誕生(植物から)〕1の『呂氏春秋』巻14「孝行覧・本味」。

*男が棒に変わる→〔棒〕6の『棒』(安部公房)。

★2.愛し合う男女が、ともに木に変わる。

『常陸国風土記』香島郡・童子女の松原  カガイ(歌垣)で出会った寒田郎子と海上孃子とは、その夜、恋を語り合うが、夜が明けてしまい人に見られるのを恥じて、ともに松の樹に化した。郎子を奈美松といい、孃子を古津松という。

*老夫婦が、ともに木に変わる→〔同日の死〕9の『変身物語』(オヴィディウス)巻8。

★3.自殺者が、地獄へ堕ちて木に変わる。

『神曲』(ダンテ)「地獄篇」第13歌  「私(ダンテ)」は地獄の第七圏谷第二円に降りる。森の大樹の一枝を折ると、血が流れ出て、「なぜ私を折るのか?」と幹が叫ぶ。それは、自殺者が木に変えられていたのだった。自殺者の魂は木の幹に閉じ込められ、最後の審判の日も、彼らは肉体を身につけることができない。自らの魂の茨の木に、肉体はぶら下がるしかないのだ。

『歯車』(芥川龍之介)2「復讐」  冬の日。「僕」は小説執筆のために滞在中のホテルを出て、姉の家まで歩いて行った。姉の夫は、何日か前に鉄道自殺したのだ。道沿いの公園の樹木を見て、「僕」は「ダンテの地獄の中にある、樹木になった魂」を思い出した。「僕」は道を変え、ビルディングの並ぶ電車線路の向こうを歩いた〔*芥川龍之介自身も、『歯車』執筆後に服毒自殺する〕。

★4.矢・槍・櫛などが地面に根づいて、木になる。

『日本書紀』巻2神代下・第10段一書第1  ヒコホホデミ(山幸彦)が海辺にたたずんでいると、塩土老翁(しほつちのをぢ)が現れ、袋から黒い櫛を取り出して地に投げた。それらは多くの竹林になった〔*塩土老翁はその竹で籠を作り、ヒコホホデミを中に入れて、海神の宮に送った〕。

『播磨国風土記』揖保(いひぼ)の郡林田の里  伊和(いわ)大神が、林田の里に占有の標を立てた。後にそれが楡の樹になった。

『肥前国風土記』神埼の郡琴木の岡  景行天皇が、岡(琴木の岡)で宴をした。その後で琴を立てると、琴は高さ五丈・周り三丈の樟となった。

『変身物語』(オヴィディウス)巻15  ロムルスの投げた槍がパラティウムの丘に突きささると、たちまち槍から葉が生じた。槍はそこに根づき、木となった。

『ホスローとシーリーン』(ニザーミー)第60章  ファルハードの持つつるはしの柄は、柘榴の木でできていた。彼が死に臨んで山から落としたつるはしは地上にささり、そこから柘榴の若木が生え育って、多くの実をつけた。

『陸奥国風土記』逸文・八槻の郷  ヤマトタケルが、八槻の郷の土蜘蛛たちを槻の矢で射た。その矢はことごとく芽を出して、槻の木となった。

★5.髭や毛が、木になるばあいもある。

『日本書紀』巻1神代上・第8段一書第5  スサノヲノミコトが鬚(あごひげ)髯(ほおひげ)を抜いて散らすと、それらは杉になった。胸の毛は檜になり、尻の毛はマキ(イチイ科の常緑喬木)になり、眉の毛は樟になった。「杉と樟は浮宝(うくたから。船)とせよ。檜は宮殿、マキは棺の材料にせよ」と、スサノヲは教えた。

*杖が根づいて木になる→〔杖〕1aの『宇治拾遺物語』巻8−5など。

 

 

【木の上】

★1.木の上には神仏が現れる。

『古事記』上巻  天孫ニニギの子ホヲリ(山幸彦)が、海神の宮の門前に到り、井の傍らの桂の木に登る。海神の娘トヨタマビメの侍女が、水汲みに来てホヲリの姿を仰ぎ見る。侍女はトヨタマビメに「立派なおかたがおいでです」と知らせる〔*『日本書紀』巻2・第10段本文および一書第1では、ヒコホホデミ(ホヲリ)は桂の木の下にいた、と記す。一書第2では、木に跳び登った、と記す〕。

『隣りの寝太郎』(日本の昔話)  分限者の屋敷の隣りに、怠け者の寝太郎が住んでいた。寝太郎は夜中に分限者の庭の松の木に登り、「わしは奥山の天狗だ。お前の娘を、隣りの寝太郎の嫁にやれ」と命じて、提灯に火をともし、鳶の足にくくりつけて放す。光るものが空を飛ぶのを見て、分限者は本当の天狗のお告げと思い、娘を寝太郎に与える(広島県比婆郡。*寝太郎が飛ばす鳥は、鳩や雉のばあいもある)。

*五条の柿の木の梢に現れた仏は、天狗が化けたものだった→〔仏〕5の『今昔物語集』巻20−3。

★2.木の上に、冥府の使いが現れることもある。

『述異記』12「樹上の人」  郭秀之は七十三歳の時、病気になって家にひきこもった。早朝、家の北側にある棗(なつめ)の大木の上に、黒い頭巾・黒い革袴をつけた色黒の男が現れ、郭秀之に向かって、「あなたを呼びに来た。早く支度をなさい」と言った。日が昇ると、男は消えた。郭秀之だけでなく、家中の者が男を見た。こうしたことが五十三日間続き、郭秀之が死ぬと男は現れなくなった。

*電信柱の上に、幽霊が現れる→〔電信柱〕4の『異界からのサイン』(松谷みよ子)12「電柱の上に立つ幽霊」。

 

 

【木の下】

★1.木の下の出会い。

『明(みん)史』巻322「外国」3「日本」  日本には昔から王がおり、その下に「関白」と称する者がいた。山城州の頭(かしら)である関白信長が狩りに出た時、樹の下に寝そべっている男と出会った。男は飛び起きて信長にぶつかり、「自分は平秀吉、薩摩州の人の奴隷だ」と言った。秀吉は身体が強く、すばしこく、弁が立ったので、信長はすっかり気に入った。樹の下で出会ったことから、「木下人」と名づけて召し使った。

*これは、日吉丸と蜂須賀小六が橋の上で出会った物語の変形であろう→〔橋の上の出会い〕4bの『絵本太閤記』。 

★2.木の下に埋まっている死体。

『今昔物語集』巻26−11  白犬が一匹の蚕を食べ、鼻の穴から多量の糸を出した後に倒れて死んだ。犬の死体を桑の木の下に埋めると、その木に蚕が隙間もないほど繭を作り、良質の糸が取れた。糸は朝廷に献上され、代々の帝の衣服に用いられた。

『南総里見八犬伝』第3輯巻之1第21回  犬塚信乃は愛犬与四郎の死骸を、梅の樹のほとりに埋めた。それから一年後の春三月。信乃と額蔵(犬川荘助)は、青梅が多くなっているのを見て、「犬が肥やしになったのか」と話し合う。梅は各枝に八つずつなり、実ごとに、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が現れていた。

*桜の樹の下には屍体がある、との空想→〔桜〕5の『桜の樹の下には』(梶井基次郎)。

 

 

【木の精】

★1.人間(男)と木の精(女)との結婚。

『青柳のはなし』(小泉八雲『怪談』)  若侍が、山中の柳の木の近くの一軒家で美女青柳を見いだし、妻として連れ帰り幸福に暮らす。五年たったある日、青柳は突然苦しみ出し、「柳の生気が私の命であり、今誰かが私の木を切り倒している」と夫に告げて、息絶える。

『三十三間堂棟由来』  昔、梛の木と柳の木が枝を交わし夫婦となっていたが、修行僧・蓮華王坊が枝を切り、夫婦の仲を裂いた。後、梛は平太郎という人間に生まれ変わり、柳の精はお柳という娘に身を変じて、二人は結婚し、子供も生まれる。しかし、三十三間堂の棟木にすべく、柳の木が伐り倒されることになり、お柳は夫と子に別れを告げて去った。

*木の精(男)と人間(女)との交わり→〔糸と男女〕3の『袋草紙』(藤原清輔)「雑談」。

★2.木の精が老人の姿で現れる。

『老松』(能)  都の梅津某が、北野天神の夢告にしたがって、筑紫の安楽寺を訪れる。かつて菅原道真を慕ってこの地に来た老松(追い松)と飛梅の精が、老人と若者の姿で現れ、松や梅の故事を語り聞かせる。

参宮松の伝説  伊勢参宮の旅人五人が、道中、「松右衛門」という老人にたいへん世話になった。翌年五人は、お礼かたがた老人の故郷秋田の水沢を訪ねるが、「松右衛門」は実在しない。「松右衛門」と名乗ったのは、水沢の松の老木の精であった。五人から話を聞いた水沢の村人たちは、「去年の春彼岸に老松が枯れかかり、秋彼岸になってまた生き返ったのは、その間、老松は伊勢参宮をしていたのだ」と悟った(秋田県河辺郡雄和村平沢字水沢)。

『高砂』(能)  阿蘇の宮の神主友成が播州高砂を訪れ、熊手と杉箒を持つ老人夫婦と出会う。彼らは高砂の松と住吉の松の精であり、「住吉で待つ」と告げる。友成が船で住吉へ行くと、住吉明神が出現し、舞う。

 

 

【木の股】

★1.神が木の股に降下する。

『常陸国風土記』久慈の郡賀毘礼の高峰  立速日男命が天から降り、松の樹の枝が多く分かれた股の上にいた。人が松に大小便をすると、災いを下し病気にならせた。

★2.木の股に子供を置く。

『沙石集』巻5末−7  和泉国の「薬師」という名前の下女が、心太(ところてん)のようなものを産んだ。これを鉢に入れて榎(えのき)の股に置いたところ、鉢の中から大佛頂陀羅尼の声がして、数日後に美しい童子が出て来た。この童子が、後の行基菩薩である。

*女が、自分の産んだ赤ん坊を木の股に置く→〔妬婦〕2の『古事記』上巻。

『神道集』巻6−33「三島大明神の事」  伊予の国の長者・橘朝臣清政夫妻が、長谷寺の観音に祈って、若君玉王を授かった。しかし夫妻の喜びもつかのま、幼い玉王は鷲にさらわれてしまう。鷲は阿波の国へ飛び、頼藤右衛門尉家の庭の枇杷の木の三つ股に幼児をはさんで、去る〔*『みしま』(御伽草子)も同話〕。

*鷲などの鳥が、さらった子供を木の上に置く→〔兄妹〕4の『みつけ鳥』(グリム)KHM51。

*僧が、木の股で往生する→〔発心〕3の『今昔物語集』巻19−14。

★3.木の股の上から、矢を射る。

『日本書紀』巻21崇峻天皇即位前紀  蘇我馬子が物部守屋を討つべく軍勢を送る。守屋は、衣摺の朴(榎)の木の股に登って、上から雨のごとく矢を射かけた。しかし、迹見首赤檮が守屋を木の股から射落とした。

 

※木からの誕生→〔誕生(植物から)〕2のハイヌウェレの神話・『変身物語』(オヴィディウス)巻10・『呂氏春秋』巻14「孝行覧・本味」。

 

 

【記憶】

 *関連項目→〔忘却〕

★1.失われた過去の記憶がよみがえる。

『失われた時をもとめて』(プルースト)第1篇「スワン家のほうへ」  寒い冬の日。帰宅した「私」に、母が、紅茶を飲んで暖まるよう勧める。「私」は、マドレーヌ菓子を溶かした紅茶を口に含むが、その瞬間、すばらしい幸福感がわきあがる。それは、幼年時に叔母の部屋で食べた菓子の味を思い出したからであり、味覚をきっかけに、叔母とともに幼年時を過ごした田舎町コンブレーでの記憶が、いきいきとよみがえった〔*小説の最終篇である第7篇「見出された時」でも、「私」はもう一度同様の経験をする。多年を経て初老に達した「私」は、ゲルマント大公夫人邸のパーティーに招かれ、中庭の敷石につまづく。「私」は、かつて母とヴェニスを旅行して寺院の敷石につまづいたことを想起し、記憶が時間を超越する実在であることを知って歓喜する〕。

『ドグラ・マグラ』(夢野久作)  玄宗皇帝に仕える絵師・呉青秀が、妻を絞殺して死体の変相図を絵巻物に描いた。それから一千年以上を経て、呉青秀の遠い子孫である大学生・呉一郎がその絵巻物を見ると、たちまち心理遺伝によって、呉青秀としての記憶がよみがえる。呉一郎は正気を失って婚約者モヨ子を絞殺し、その死体を絵に描こうとする〔*呉一郎は大学病院の精神科に収容される。モヨ子は死なず蘇生して、呉一郎の病室の隣りに収容される〕。

『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「わすれとんかち」  記憶喪失の男が町に来たので、ドラえもんが、記憶をたたき出すとんかちで男の頭をたたく。すると、東京タワーから落ちる、自動車にひかれる、城に住む、大金を数えるなど、男の波乱万丈の人生を示す記憶が次々に出てくる。警官隊と銃撃戦をする記憶まであらわれ、男は「自分はギャングだったような覚えもある」と言う。男は、映画の悪役スターなのだった。

★2a.戦争による記憶喪失。

『ABC殺人事件』(クリスティ)  行商人カストは戦争で頭を負傷し、時々記憶喪失を起こすようになる。彼は殺人犯にあやつられ、血のついたナイフをポケットに入れられて、自分は知らぬまに連続殺人を犯したのではないかと思い、自首する。

『かくも長き不在』(コルピ)  テレーズ(演ずるのはアリダ・ヴァリ)の夫は第二次大戦中ナチに連行され、戦後十数年を経ても消息不明である。ある日、夫そっくりの浮浪者が通りかかるが、彼は記憶を失っており、テレーズが食事やダンスに誘っても、何も思い出せない。夜、去って行く浮浪者に、テレーズは夫の名で呼びかける。その時、戦争中の恐怖の記憶が蘇り、彼は夢中で走り出す。前方からトラックが来る。

★2b.戦争による記憶喪失+交通事故による記憶喪失。

『心の旅路』(ルロイ)  第一次大戦に従軍したチャールズ(演ずるのはロナルド・コールマン)は、戦場で一切の記憶を喪失し、病院に収容された。ある日、彼は病院を抜け出て街をさまよい、踊子ポーラ(グリア・ガースン)と出会い結婚して、ゼロからの新生活を始める。ところが三年後、チャールズは交通事故で頭を打ち、自分が富豪の跡継ぎだったことを思い出すが、過去の記憶回復と引き換えに、今度はポーラとの三年間の記憶を喪失してしまう→〔同一人物〕3

★2c.交通事故による記憶喪失。

『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕)  画家次郎(演ずるのは石原裕次郎)の恋人久子(浅丘ルリ子)は、交通事故の衝撃で記憶をすべて失った。次郎が描いた久子の肖像画を見て、彼女は激しく心を動かされるが、記憶を取り戻すにはいたらない。ある夜、久子は次郎の留守に、卓上ピアノを何気なく叩く。すると指が自然に動き出し、あるメロディーを弾き始める。それは、かつて次郎と久子が愛唱していた『銀座の恋の物語』のメロディーだった。そこへ次郎が帰って来て、久子は記憶を回復する。

★3.記憶と前世。

『今昔物語集』巻7−4  震旦の僧は、『大般若経』六百巻のうち二百巻は記憶できたが、四百巻は覚えられなかった。彼が前世で牛だった時、二百巻を背負ったが、残りの巻々には縁がなかったのだった。

『今昔物語集』巻7−20  震旦の僧は、『法華経』「薬草喩品」の「靉靆」の二字が記憶できなかった。彼が前世で女だった時に読誦した『法華経』中の「靉靆」の二字が紙魚に食われており、読めなかったからであった。

*→〔前世〕に記事。

*→〔背中〕1『夢十夜』(夏目漱石)第3夜では、「自分」が百年前に一人の盲人を殺した記憶がよみがえるが、それが「前世の記憶」とは明示されていない。夢の中のことであるから、→〔待つべき期間〕5の第1夜と同様に、「自分」は百年以上生きているのかもしれない。

★4.他人の記憶の侵入。

『鋸山奇談』(ポオ)  一八二七年。ベドロウ( Bedloe )はヴァージニア州の鋸山を散策中、「戦闘に巻きこまれ、毒矢が右こめかみに刺さって死ぬ」との白日夢を見た。医師テムプルトンは、「それは一七八〇年にインドで死んだ自分の親友オルデブ( Oldeb )の記憶だ」と説き、「ベドロウとオルデブの容貌はそっくりだ」と言う。一週間後、ベドロウは右こめかみへの瀉血治療の手違いで死ぬ。新聞の死亡記事は誤植で Bedlo となり、それは Oldeb の綴りのちょうど逆だった。

*アシモフ( Asimov )の逆綴り ヴォミーサ( Vomisa )→〔ロボット〕4cの『ヴォミーサ』(小松左京)。

*佐清(すけきよ)を逆に読んで「よきけす」→〔逆立ち〕1の『犬神家の一族』(横溝正史)。

★5.未来の記憶が過去に逆行する。

『鏡の国のアリス』(キャロル)  鏡の国を訪れたアリスに、白の女王が「あともどりしながら生きているので、記憶力が前と後ろの二方向に働いて便利じゃ。よく思い出すのは再来週起こったことじゃ」などと教える。そのうちに女王は、「指から血が出た。今度ショールを留める時じゃ。ブローチが今すぐはずれる」と騒ぎ出す。まもなくブローチがはずれ、留め針が女王の指を刺す。 

『幼年期の終わり』(クラーク)  宇宙からの知性体が地球を訪れたのは、新人類誕生の時が来たからだったが、それは同時に、旧人類=ホモ・サピエンスの死滅をも意味するのであった。そのため人類は、知性体の姿を、死をもたらす恐ろしいものとして記憶した。この強烈な記憶は何千年もの時間を逆行し、太古以来の人類の心に悪魔のイメージとして刻印された→〔悪魔〕7

★6.記憶力の弱い人。

『黄金伝説』50「主のお告げ」  ある騎士が修道士になるべく勉強するが、「アヴェ・マリア」の二語しか覚えられず、彼はいつもその二語をつぶやいていた→〔口から出る〕2

『沙石集』巻2−1  仏の御弟子須利盤特(しゅりはんどく)は記憶力が弱く、自分の名前すら忘れるほどだった。仏は彼を哀れみ、「守口摂意身莫犯、如是行者得度世」の偈(げ)を与える。須利盤特はこれを信じ修行して、「羅漢果」という悟りの境地を得た。

★7.記憶を持つ人と持たぬ人。

『豊饒の海』(三島由紀夫)第4巻『天人五衰』  綾倉伯爵家の長女聡子は、松枝侯爵家の嫡子清顕の子を宿すが堕胎し、月修寺に入って剃髪した。清顕は病死し、彼の親友本多繁邦は、清顕の生まれ変わりの人物を探し求めて、数十年が経過する(*→〔ほくろ〕2a)。八十一歳になった本多は月修寺を訪れ、聡子と六十年ぶりに対面する。聡子は、「松枝清顕という人は知らない。そんな人はもともと存在しなかったのではないか」と言う。本多は「記憶もなければ何もない所へ、自分は来てしまった」と思う(30)。

*『班女』で、花子が吉雄の顔を見て、「吉雄ではない」と否定する場面を想起させる→〔人違い〕3c

『弓浦市』(川端康成)  小説家・香住庄助の家を見知らぬ女が訪れ、三十年前、香住が九州の弓浦市に旅した時、お目にかかった者だ、と名乗る。その折、香住は女の部屋まで行って求婚したが、女にはすでに婚約者がいたのだったと言う。しかし香住には記憶がない。女が帰った後、香住は九州地図を開いたが、弓浦市は実在しなかった。

★8a.誕生以来のすべての記憶を持つ人。

『記憶の人、フネス』(ボルヘス)  イレネオ・フネスは落馬事故のため十九歳で寝たきりになったが、意識を回復した時、生まれてから見たり聞いたり考えたりしたことの、すべての記憶がよみがえった。以後もフネスは、日々経験することがらを細部まで記憶し、忘れることができなかった。しかし、彼の思考能力は乏しかった。思考とは、相違を忘れ、一般化し、抽象化することだからである。フネスは二十一歳で死んだ。

★8b.生前および死後のあらゆる記憶を保持する人。

『ギリシア哲学者列伝』(ラエルティオス)第8巻第1章「ピュタゴラス」  ヘルメスが息子アイタリデスに、「不死以外のことなら何でもかなえてやる」と言う。アイタリデスは「生きている間も死んでからも、自分の身に起こった出来事の記憶を保持できるようにしてほしい」と頼む。アイタリデスは転生してエウポルボス、ヘルモティモス、ピュロス、そしてピュタゴラスとなった(*→〔前世を語る〕1の『変身物語』(オヴィディウス)巻15)。ピュタゴラスは以前の転生のすべての記憶を持ち、さらに冥府で味わった苦難や、多くの動物・植物に生まれ変わったことをも覚えていた→〔冥界の時間〕6。 

★9.書物の全文を記憶する。

『華氏451度』(ブラッドベリ)  読書が禁ぜられ、書物が焼き棄てられる時代。少数の人々は田舎に隠れ住み、書物を、その全文を記憶することによって守ろうとした。ある者はプラトンの『国家』を、ある者は『マタイ伝』を暗誦し、ダーウィンやアインシュタイン、あるいは仏陀や孔子などを担当する者もいた。もと焚書官モンターグは都市から逃亡して(*→〔焚書〕1)、彼らの一員となり、『伝道の書』の暗誦を始めた。

『志賀直哉』(阿川弘之)「戦中縁辺」  溝井勇三(1915〜97)は二十三歳で北支戦線へ出征し、赤痢がきっかけで関節ロイマチスを発症する。そのため四肢が硬直し、ほぼ寝たきり状態になってしまった。一時は自殺を考えた溝井だが、岩波文庫の『暗夜行路』上下二冊に出会って異常な感銘を受け、『暗夜行路』後篇全文の暗記にとりかかる。一日一頁を限度として暗記・復唱を続け、昭和十七年(1942)二月初め、ついに全文を暗記し終えた〔*溝井は志賀直哉から激励されて、直井潔のペンネームで幾編かの小説を書いた〕。

★10.記憶の中の存在を、実体化する。

『惑星ソラリス』(タルコフスキー)  惑星ソラリスの広大な海は、ソラリスを訪れる人間の脳から記憶を引き出して、それを物質化した。心理学者クリスの前には、十年前に自殺した愛妻ハリーそっくりの女が現れた。クリスと女は愛し合うが、女は自分が本物のハリーではないことを知っており、クリスも女も苦悩する。やがて女は別れの手紙を残して、自らを消滅させた→〔生命〕5

★11.擬似記憶。

『時をかける少女』(大林宣彦)  西暦二六六〇年の世界は、植物が絶滅した世界だった。その時代の少年薬学博士が、植物の成分を求めて二十世紀日本の或る町へやって来る。彼は高校生として生活し、クラスメイトの芳山和子(演ずるのは原田知世)をはじめとする周囲の人々には、彼がその町で生まれ育ったかのごとき擬似記憶を与えた。彼は植物成分の採集を終え、彼に関わった人々の記憶を消し、彼自身の記憶も消して、未来世界へ帰って行く〔*→〔忘却〕8の『竹取物語』では、かぐや姫は翁への哀れみの心をなくすだけで、翁たち地上の人々の記憶は消さずに、月世界へ帰る〕。

*「人間である」との擬似記憶を移植されたアンドロイド→〔人造人間〕1の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ディック)。 

★12.全人類が、実在しない過去を記憶している。

世界五分前仮説(ラッセル『心の分析』講義\「記憶」)  記憶を構成するすべてのものは、今あるのであって、過去にあったものではない。記憶があるからといって、その過去が存在したとはいえない。「世界は、実在しない過去の記憶を持つ全人類とともに、今から五分前に突如として存在し始めた」という仮説には、いかなる論理的不可能性もないのである。

*逆に、実際にあった過去の出来事の記憶を、人々の心から消去してしまう→〔戦争〕5の『戦争はなかった』(小松左京)。

 

 

【帰還】

★1.夫の帰還を迎える妻。

『オデュッセイア』第23巻  オデュッセウスはトロイアに出征し、戦場で十年を過ごした。戦勝後、彼が故郷イタケへ戻るまでに、さらに十年の月日が流れる。その間オデュッセウスの妻ペネロペは、館に入りこんだ大勢の無法な求婚者たちを退けて(*→〔繰り返し〕1)、夫を待ち続ける。二十年後にオデュッセウスは帰還し、求婚者たちを殺して、再びペネロペと結ばれる。

*『オデュッセイア』をもとにジョイスが書いた『ユリシーズ』では、主人公レオポルド・ブルームはオデュッセウスのように遠方へ戦争に出かけるのではなく、ある一日、友人の葬儀に参列し、新聞社へ行き、図書館へ行き、酒場へ行く、というように、ダブリンの町の方々を歩き回るだけである。彼の妻モリーはペネロペのように貞節ではなく、愛人がいる。レオポルド・ブルームは帰宅して、妻のベッドに男が寝たらしい痕跡を認める。

*トロイア戦争から帰還した夫を殺す→〔夫殺し〕1の『アガメムノン』(アイスキュロス)。

『源氏物語』「蓬生」  源氏が二年五ヵ月ほど都を離れて須磨・明石にある間、末摘花は窮乏生活に耐えて源氏を待ち続ける。帰京した源氏は末摘花のことを忘れているが、翌年四月、花散里を訪れる途中、荒廃した邸を見て、源氏はそこが末摘花の家であることをようやく思い出す。源氏と末摘花は三年ぶりに対面する。

*刑務所帰りの夫を迎える妻→〔合図〕6の『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(山田洋次)。

★2.夫の帰還を、霊となって迎える妻。

『雨月物語』巻之2「浅茅が宿」  都から七年ぶりに故郷葛飾へ帰った勝四郎は、昔のままの我が家と、やつれた姿の妻・宮木を見出す。その夜、二人は床をともにするが、勝四郎が翌朝目覚めると妻の姿はなく、彼は廃屋にただ一人臥していた。宮木は、家を守り夫を待ち続けながらも、五年前に死んだのであり、勝四郎を迎えたのは彼女の霊だった。

『今昔物語集』巻27−24に類話があり、夫が朝目覚めると、干からびて骨と皮ばかりの死人を抱いていた、と記す。

『剪燈新話』巻3「愛卿伝」  愛卿は趙家の嫁になったが、しばらくして夫は官途に就くために旅立った。留守を守る愛卿は、憲兵隊長の劉に犯されそうになったので、自ら縊死した。やがて帰還した夫は、愛卿の死を知って慟哭し、「どうか一度、顔を見せておくれ」と訴える。十日ほどして愛卿は姿を現し、一夜、夫と床をともにして、翌朝、霊界へ帰って行った→〔妊娠期間〕2

★3.夫が帰還した時、妻は他の男と結婚していた。

『伊勢物語』第24段  女が、三年戻らぬ夫をあきらめて、別の男と結婚する。ところが新枕の夜、夫が帰って来て「この戸をあけよ」とたたく。女と歌のやりとりをした後、事情を知った夫は去って行く。女はあとを追い、力尽きて、清水のある所で死ぬ。

『イノック・アーデン』(テニスン)  イノックは遠洋航海に出たまま、十年余り帰らない。イノックが死んだものとあきらめた妻は、幼ななじみのフィリップと再婚し、子供も生まれる。そこへイノックが無人島から生還するが、妻が親友と再婚して幸せに暮らしているのを知り、自分の正体を隠してひそかに働き、死んでゆく。

『夫が多すぎて』(モーム)  第一次大戦終結直後。美女ヴィクトリアは、夫ウィリアムが戦死してしまったので、夫の親友フレデリックと再婚して、幸せに暮らしている。ところがそこへ、夫ウィリアムが元気な姿で帰って来た。ウィリアムとフレデリックは互いに犠牲的精神を発揮し、相手にヴィクトリアを譲って自分は身を引こうと考える。前々から大金持ちのレスターに求愛されていたヴィクトリアは、二人の夫と離婚して、レスターを三人目の夫とする。ウィリアムとフレデリックは、レスターのために乾杯する。「神よ、彼を守り給え」「我々二人には自由を与え給え」。

『懐硯』(井原西鶴)巻1−4「案内しつてむかしの寝所」  淡路島の漁民久六が東国の海へ出稼ぎに行き、帰らなかった。荒天で多くの船が沈んだと聞いた妻は、夫は死んだものと諦めて、同じ浦の漁民木工兵衛と祝言をあげた。一夜あけた朝に久六が戻り、妻を刺し殺し木工兵衛を討って、その刀で自害した。

『万の文反古』(井原西鶴)巻4−1「南部の人が見たもまこと」  夫利兵衛が、最上川の洪水で死んだ。百ヵ日の法要をすませて、女房こよしは利兵衛の弟利左衛門と結婚する。それから二〜三日も過ぎぬうちに、利兵衛が無事帰って来た。利兵衛・利左衛門兄弟は刺し違え、こよしは行方知れずになった。

★4.婚約者が帰還した時、女は他の男と結婚していた。

『モンテ・クリスト伯』(デュマ)  十七歳の娘メルセデスは、エドモン・ダンテスと結婚間近だったが、ダンテスは、フェルナンたちの悪巧みによって(*→〔宴席〕4)、シャトー・ディフ(悪魔島)へ送られた。メルセデスは、ダンテスが死んでしまったものと思い、以前から彼女に横恋慕していたフェルナンの求愛を受け入れて結婚する。二人の間に一人息子アルベールが生まれ、彼が青年に達する頃、ダンテスはモンテ・クリスト伯となって現れ、フェルナンの旧悪をあばいて自殺に追い込む。復讐を終えたダンテスは、三十九歳のメルセデスに別れを告げて去って行く〔*ダンテスはギリシアの王女エデに愛され、余生を彼女とともにする。一九九八年にフランスで制作された長編テレビドラマでは、ダンテスはメルセデスに「二人で一からやり直そう」と言う〕。

*浮浪児が富裕な紳士となって帰還し、自分を苦しめた人々に復讐する→〔行方不明〕2の『嵐が丘』(E・ブロンテ)。

★5.夫が新しい妻を連れて、もとの妻の所へやって来る。

『蝶々夫人』(プッチーニ)  長崎の芸者蝶々さんは、アメリカ人海軍士官ピンカートンと結婚する。ピンカートンはアメリカへ一時帰国し、蝶々さんは生まれた子供とともに、ピンカートンが戻って来る日を待つ。三年後、ピンカートンはアメリカで娶った白人女性を伴って訪れ、蝶々さんに子供の引き渡しを求める。蝶々さんは、亡父の形見の短刀で自害する。

★6.父の帰還。

『父帰る』(菊池寛)  宗太郎は二十年前、妻おたかと三人の子供(賢一郎、新二郎、おたね)を捨て、情婦とともに出奔した。残された家族は一家心中寸前に追いつめられたが、子供たちは艱難に負けず成長し、賢一郎は役所に勤め、新二郎は小学校教師となり、おたねは嫁入り間近の美しい娘となった。そこへ老残の宗太郎が、子供たちの世話になって余生を送ろうと、帰って来る。しかし賢一郎が激しい非難の言葉を浴びせ、宗太郎は悄然と出て行く。賢一郎は新二郎に、「新! お父様を呼び返して来い」と命じる。

★7.息子の帰還。

『黄金伝説』89「聖アレクシオス」  大貴族の一人息子アレクシオスは結婚式の夜に家を出、他郷で乞食となって、十七年間神に仕える。やがて彼は「もう他人の世話にはなるまい」と考え、乞食姿ゆえアレクシオスと気づかれずに父の屋敷へ戻り、慈悲を請う。彼は一室を与えられ、正体を知られぬまま祈りの生活を十七年間続け、死期を悟って、羊皮紙に自分の一代記を書き残す。

『ルカによる福音書』第15章  父親が二人の息子に財産を分けた。二人のうち兄は家にいたが、弟は遠い国へ旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たした後に、帰って来た。父親は喜び、肥えた子牛を屠って祝宴を始める。兄が「私は子山羊一匹すらもらったことがない」と怒ると、父親は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前ではないか」と言った〔*他の福音書には、この物語はない〕。

 

 

【聞き違い】

★1.死に瀕した人間の苦悶の声音を、風音や鼾声と聞き違える。

『心中』(森鴎外)  雪の夜、料理店の女中二人が廊下伝いに小用に行く。「ひゅうひゅう」という、戸の隙間から風が吹きこむような音がするので、音の出所を捜して四畳半を開けると、男女が心中していた。女はまだ息があって、刃物で切られた気管の疵口から呼吸をする音が、「ひゅうひゅう」と聞こえたのだった。

*逆に、ただの風音を、すすり泣きの声と聞き違える→〔泣き声〕4の『現代民話考』(松谷みよ子)7「学校ほか」第1章「怪談」の17。

『沈黙』(遠藤周作)  ポルトガル司祭ロドリゴは、キリシタン禁制の日本へ潜入して、牢に捕らわれた。夜、酔った牢番の鼾(いびき)らしい音が聞こえるのでロドリゴは嗤(わら)うが、実はそれは、穴の中に逆さ吊りされた日本人信徒たちの呻き声だった。ロドリゴが棄教すれば、信徒たちは拷問から解放されると聞いて、彼は踏絵の前に立った→〔禁制〕7

*苦悶の叫びが、牛の鳴き声に聞こえる→〔動物音声〕6の『ゲスタ・ロマノルム』48。

★2.ある語を、発音の類似した別の語に聞き違える。

『あばばばば』(芥川龍之介)  保吉(海軍学校の英語教師・堀川保吉)は、行きつけの雑貨屋で燻製の鯡(にしん)を買った。店番の若妻に「鯡をくれ給え」と言うと、若妻は羞かしそうに顔を赤く染めた。それから数ヵ月後、保吉は若妻が赤ん坊を「あばばばば」と、あやす姿を見た。あの時若妻は、「鯡」を「妊娠」と聞き違えたらしかった。

『鐘の音(ね)(狂言)  主が、金の熨斗付けの刀を息子に与えようと考え、太郎冠者に「付け金の値(ね)を鎌倉へ行って聞いて来い」と命ずる。太郎冠者は「撞き鐘の音」と聞き違え、寺々の鐘を撞いて廻る。

『北野天神縁起』  右大将保忠が病気になった。平癒を祈って祈祷僧が『薬師経』を読誦し、「所謂宮毘羅大将(いはゆるくびらだいしゃう)」と声をはりあげる。それを聞いた保忠は、「『我くびらん(大将である私をくびり殺す)』と読んでいるのだ」と思い、恐怖心から、そのまま意識を失ってしまった〔*『大鏡』「時平伝」に類話〕。

『古今著聞集』巻16「興言利口」第25・通巻528話  兵庫助則定は、六十歳ほどの老女小松を寵愛したため、皆から「小松まぎ」と呼ばれていた。ある日、台盤所の女房が「こまつなぎ」(馬棘あるいは大根草)を求めた時、侍が間違えて「小松まぎ」則定を連れて来た。

『日本書紀』巻13允恭天皇42年11月  新羅の人が、耳成(みみなし)山・畝傍(うねび)山を愛でて、「うねめはや、みみはや」と言った。日本語に習熟していなかったので発音が訛ったのだった。ところがこれを聞いた人が、「新羅人が采女(うねめ)と密通したのだ」と誤解し、新羅人は捕えられた。

*「寒いから懐炉」を「寒いから帰ろう」→〔映画〕11の『朝の試写会』(志賀直哉)。

*「応無所住而其心生」を「大麦四升小豆三升」→〔呪文〕3の『藤棚』(森鴎外)。

*「亀嵩(かめだけ)」を「カメダ」→〔最期の言葉〕2の『砂の器』(松本清張)。

*「たのきゅう」を「狸」→〔弱点〕1の『たのきゅう』(日本の昔話)。

*「茶を飲む」を「蛇(じゃ)を呑む」→〔茶〕3の朝茶の由来の伝説。

*月に一度の逢瀬を、年に一度と聞き違える→〔天の川〕1の『天稚彦草子』(御伽草子)・『牽牛星と織女星』(中国の民話)。

*同音異義語の勘違い→〔同音異義〕に記事。

★3.葉が風に吹かれる音を、羽ばたきと聞き違える。

『むく鳥のゆめ』(浜田広介)  冬の夜、「かさこそかさこそ」と羽のすれあう音がするので、むく鳥の子は「遠いところへ行ってしまったかあさん鳥が帰って来たのだ」と思う。とうさん鳥に「風の音だよ」と言われて、むく鳥の子が見に行くと、冷たい風が黄色い枯れ葉に吹きつけていた→〔葉〕4

*羽ばたきの音を敵襲と聞き違える→〔逃走〕5の『平家物語』巻5「富士川」。

★4.聞き違いから、新しい文学作品を創造する。

『藤野君のこと』(安部公房)  北海道を旅行した「ぼく(安部公房)」は、老人から、人間そっくりの動物アムダのことを聞く。多くのアムダが食糧用に飼育されたが、逃げて野生化したので、今アムダ狩りが行なわれているという。「ぼく」は驚くが、アムダはハムスターの聞き違いで、「人間そっくり」でなく「鼠そっくり」なのだった。しかしこの聞き違いから、戯曲『どれい狩り』(外見は人間で中身は異なる動物ウエーが登場する)の構想が生まれた。

 

※読経の声を泣き声と聞き違える→〔夜泣き〕1の『かるかや』(説経)「高野の巻」。

※耳が遠くて聞き違えたふりをする→〔酒〕12の『タケとサケ』(現代民話)。

 

 

【偽死】

★1.身を守るため・極秘の活動をするために、死んだと見せかけて姿を隠す。

『球形の荒野』(松本清張)  太平洋戦争末期、ヨーロッパの中立国に駐在する外交官・野上顕一郎は連合国側と接触し、戦争を終結させるべく工作をする。そのために、彼は自らの死を偽装して活動する必要があった。日本にいる妻と幼い娘は、彼がスイスの病院で死んだと聞かされる。戦後十六年がたった時、野上顕一郎は変名で日本を訪れ、自らの素性を隠したまま、美しく成長した娘久美子と短い対面をする。

『第三の男』(グリーン)  小説家マーティンズはウィーンへ旧友ハリー・ライムに会いに来て、彼が自動車事故で死亡し今日埋葬された、と聞かされる。しかし埋葬されたのは別人だった。ハリー・ライムは粗悪なペニシリンを密売して多くの犠牲者を出し、警察に追われていたので、死をよそおって潜伏したのだった。マーティンズは警察に協力し、地下の大下水路にハリー・ライムを追い詰めて、射殺した。

『長いお別れ』(チャンドラー)  レノックスは、前妻アイリーンの犯した殺人の罪を身に引き受け、カリフォルニアからメキシコへ逃げて、自殺したように見せかける。彼は整形手術で顔を変え、別人となってメキシコで暮らす。

『ハックルベリー・フィンの冒険』(トウェイン)1〜7  「僕(ハックルベリー・フィン)」は盗賊の隠した金を発見して大金持ちになり、ダグラス未亡人の養子にされた。自然児の「僕」にとって、それは窮屈な生活だった。そこへ金目当ての親父が現れ、「僕」を未亡人から引き離し、森の小屋に軟禁する。「僕」は親父の留守に、野豚の血を斧に塗り、そこに髪の毛を少しつけて逃げる。町の人たちは、泥棒が「僕」を殺して近くの川に死体を棄てたのだ、と思う→〔川の流れ〕3

*男装の女が「病死した」といつわり、以後は本来の女姿になる→〔一人二役〕2aの『有明けの別れ』。

★2a.路傍で死体のふりをして、旅人を襲う。

『今昔物語集』巻29−19  盗賊袴垂が、死体のふりをして裸で路傍に臥す。通りかかりの武者が馬上から弓の先で袴垂の身体をつつくと、袴垂はとび起き、武者を殺して彼の衣服・武具・馬を奪った。

★2b.戦場で死体のふりをして、身の安全をはかる。

『ヘンリー四世』(シェイクスピア)第1部・第5幕第4場  フォルスタッフは戦闘中に死んだふりをして横たわり、敵が去ってから起き上がった。皇太子ヘンリーに倒された敵将ホッパーを見て、フォルスタッフはその死体に一太刀浴びせ、「自分が討ち取った」と言って、手柄を横取りしようとする。

★3a.死んだふりをして、葬儀費用を得る。

『千一夜物語』「眼を覚ました永眠の男の物語」マルドリュス版第647〜653夜  一文なしになったアブール・ハサンが死んだふりをし、彼の妻は、教王ハルン・アル・ラシードの妃から葬儀費用一万ディナールを与えられた。続いて妻が死んだふりをして、夫アブール・ハサンも、教王ハルン・アル・ラシードから一万ディナールを得た→〔返答〕3c

★3b.死んだふりをして、家族の反応を見る。

『病は気から』(モリエール)  アルガンは急死したふりをして、後妻ベリーヌと娘アンジェリックの反応を見る。心優しい妻だったはずのベリーヌは、横たわるアルガンを見て「これでほっとした」と言い、アルガンの財産を自分のものにすべく、手配を始める。アルガンが起き上がると、ベリーヌは驚いて逃げ去る。娘アンジェリックは、結婚問題で父に反抗したことを悔い、償いのために恋人クレアントと別れようと決意する。アルガンは、アンジェリックとクレアントの結婚を許す。

*夫が死んだふりをして、妻の心を試す→〔妻〕7aの『今古奇観』第20話「荘子休鼓盆成大道」・『英草紙』第4篇「黒川源太主山に入ツて道を得たる話」。

★4.はじめ他殺死体のふりをしておいて、後に自殺する。

『そして誰もいなくなった』(クリスティ)  十人の男女が島に招かれ、『テン・リトル・インディアンズ』の歌詞に従って、一人ずつ殺されていく。犯人は六人目の犠牲者をよそおい、銃で額を撃たれた死体のふりをする。こうして残りの生存者四人を欺き、その後、犯人は彼らを殺す〔*九人全員が死んだ後、犯人は今度は本当に自分の額を撃ち抜いて、自殺する〕。

★5.子供たちを救うために、父が死んだふりをする。

『法華経』「如来寿量品」第16  医者の子供たちが、毒を飲んで苦しんでいた。医者が薬を与えるが、子供たちは毒のために心が顛倒しており、薬を飲まなかった。医者は「私は老いて死期が近い。良い薬を置いておくから飲みなさい」と告げ、他国へ行ってしまった。そして人を遣わして、「父は死んだ」と子供たちに知らせた。子供たちは嘆き悲しみ、もう父には頼れないことを知って、薬を飲んだ。子供たちが回復した後に医者は帰って来て、互いの無事健康を喜び合った。   

★6.母親と息子がともに死をよそおう。

『古事記』中巻  息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと。神功皇后)の軍が新羅征討を終えて大和へ帰る時、「謀反の心を持つ者がいるのではないか」と警戒し、生まれてまもない御子(後の応神天皇)を喪船に乗せて、「御子は亡くなった」と言いふらした。山代(山城)に到った時には、「息長帯日売命が亡くなったので降伏する」といつわって、敵を油断させた→〔弓〕4 。  

 

※死体のふりをして、人がそばに寄らないようにする→〔けがれ〕2の『今昔物語集』巻29−17。

※死体のふりをしても、無法者はかまわず寄って来る→〔葬儀〕4の『通夜』(つげ義春)。

※「このしろ」を焼いて、人を火葬したかのごとく欺(あざむ)く→〔火葬〕9の『和漢三才図会』巻第49・魚類(江海有鱗)「つなし(このしろ)」。

※書き置きを残したり、石を沈めたりして、入水自殺したかのごとく欺(あざむ)く→〔にせ入水〕1の『明石物語』(御伽草子)など、→〔にせ入水〕2の『信田(しだ)』(幸若舞)。

 

 

【貴種流離】

 *関連項目→〔さすらい〕

★1.高貴な生まれの人が、青年期に達してから肉親と別れ辺境をさすらう。

『伊勢物語』第9〜15段  昔ある男が、京を住み憂く思い、友人一〜二人とともに東国へ旅に出た。男は三河の八橋で咲き誇る杜若を見、駿河の宇津の山で旧知の修行者に出会い、真夏に雪をいただく富士山に驚き、とうとう武蔵・下総の境の隅田川に到った。その後、男はさらに陸奥にまで脚を伸ばした。

『義経記』  平家追討後、源義経は兄頼朝と不和になった。義経は京の都を出て、西国へ落ちのびようとして失敗する。彼は吉野に身を隠した後、北国路をとって奥州平泉まで苦難の逃避行を続ける。

『源氏物語』「須磨」「明石」  光源氏は、朧月夜の尚侍との密会現場を、その父右大臣に見られたため、官位を剥奪され、さらに流罪の処分を受けそうになる。それを避けるため、彼は二十六歳の春三月から二十八歳の秋七月まで、自ら京を退去し、須磨・明石に身をひそめる。

『古事記』中巻  ヤマトタケルは西国のクマソを討伐した後、さらに父景行帝から東征を命ぜられる。東国へ向かったヤマトタケルは、相武(相模)で火攻めに遭い、走水の海では后を失う。ようやく東征を終えての帰途、伊吹山で氷雨に打たれ、三重の能煩野まで来て、ついに倒れる〔*『日本書紀』巻7では、十六歳で西国へ行き、二十九歳の時東征の旅に出、三十歳で死去する〕。

『日光山縁起』  都の殿上人・有宇中将は、鷹狩に熱中して職務を怠り、勅勘をこうむる。中将は都を棄て、馬にまかせて下野国まで行く。その国の長者の娘・朝日の君と結婚するが、六年を経て、都の母のことが気がかりで、中将は単身都へ帰ろうとして、途中で病死する。朝日の君も中将の後を追って旅に出、死ぬ。しかし炎魔王が二人を蘇生させ、二人の間には男児・馬頭御前が生まれる。後に有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となった。

★2.インドには夫婦ともに流離する物語がある。

『マハーバーラタ』  パーンドゥ家の王子ユディシュティラは、クル家の王子ドゥルヨーダナとの賭博勝負に負けた。その結果、ユディシュティラは四人の弟(ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)及び彼ら五人の共通の妻ドラウパディーとともに、十二年間、森で放浪生活を送ることになる。十三年目には、誰にも気づかれぬよう正体を隠してどこかに身を潜め、もし気づかれたら、さらに十二年間森で過ごす、との取り決めであった。

『ラーマーヤナ』  カウサリヤー妃の息子ラーマ王子は、彼の即位を喜ばぬカイケーイー妃の奸計によって、十四年間、森へ追放される。妻シーターや弟ラクシュマナも、ラーマに従って一緒に森へ入り、隠者たちを訪れて教えを受け、また、森の平和を乱す羅刹たちを退治する。ランカー島の魔王ラーヴァナがシーターをさらって行ったので、彼女を取り戻すべく、ラーマとラクシュマナは森を出て、猿の援軍とともにランカー島へ向かう。

*古代中国の貴種流離譚→〔土地〕3の『史記』「晋世家」第9。

 

 

【傷あと】

★1.イエス・キリストの聖痕(スティグマ)。

『黄金伝説』143「聖フランキスクス(フランチェスコ)」  聖フランキスクスは、ある時、夢の中で、十字架にかけられた一人の熾天使(セラピム)を頭上に見た。熾天使は磔刑の傷あとを、フランキスクスの身体に押しつける。目覚めると、彼の手と足と脇腹に十字のしるしが現れていた。フランキスクス自身が十字架にかけられたような傷あとだった。聖痕は、生涯消えなかった。

『わがままな大男』(ワイルド)  わがままな大男の庭を、ある日、小さな男児が訪れた。以来、大男は優しい心になり、庭を開放して、近所の子供たちを遊ばせる。歳月を経て、再び男児が訪れた時、その両掌と両足に釘あとがあるので大男は驚く。男児は「これは愛の傷」と教え、大男を天国の庭へ導く。その日遊びに来た子供たちは、大男が死んでいるのを見る。 

★2.愛のあかしの傷あと。

『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)(山東京伝)  仇気屋の一人息子・艶二郎は、「色男だ」との評判を立てられたいと願い、まず愛人の名前の彫り物をする。両腕、指の股まで、二〜三十ほど架空の愛人の名前を彫り、艶二郎は痛さをこらえて、「ここが我慢のしどころだ」と喜ぶ。

『頭文字』(三島由紀夫)  宮家との縁組が決まった公爵令嬢渥子は、ある夜、恋人朝倉季信中尉と契りを結び、愛の記念として、乳房に二人の頭文字「SA」をナイフで刻む。渥子は宮家に嫁ぎ、宮の子を産むが、その直後、風呂上がりの彼女の乳房に、消えていた「SA」の傷あとが現れる。同時刻に、朝倉中尉は中国戦線で戦死していた。

*焼いた定規で傷あとをつける→〔火傷(やけど)〕4bの『戦争と平和』(トルストイ)第2部第1篇。

★3.同一人・同一存在である証拠としての傷あと。

『赤穂浪士』(大佛次郎)「その一夜」  吉良上野介は、松の廊下で浅野内匠頭に切りつけられ、額に軽い傷、背に長さ五寸ほどのやや重い傷を負った。一年半余の後、赤穂浪士らが吉良邸に討ち入って、上野介を捕らえる。夜明け前で、額の傷跡はよく見えず、背中の長い刀痕によって、上野介であることが確認できた。

『オデュッセイア』第19巻  オデュッセウスが老乞食に変身して、二十年ぶりに故郷の館へ帰る。老乳母エウリュクレイアは、老乞食の脚を洗おうとして、かつてオデュッセウスが野猪の牙で抉られた傷痕をそこに見いだす。彼女は、オデュッセウスが目の前にいることを知る。

『今昔物語集』巻31−3  女に触れることなく修行を積んでいた湛慶阿闍梨は、ある時、一人の女を見て愛欲の心を起こし、思いがけず関係を持ってしまう。彼女の頸には、大きな傷あとがあった。かつて湛慶は、十歳ほどの女児を殺そうとして頸に切りつけたことがあったが(*→〔運命〕1b)、その女児が成長して、今、湛慶の妻となったのだった〔*類話である『続玄怪録』3「定婚店」では、女児は眉間に受けた傷の上に、造花を貼りつけて隠す〕。

『フィガロの結婚』(モーツァルト)  アルマヴィーヴァ伯爵の従僕フィガロは、女中頭マルチェリーナから借金をし、返さなかったために結婚を迫られる。しかしフィガロの右腕には、メスでつけられた綾文字の傷あとがあり、それによって、彼が昔さらわれたマルチェリーナの息子だったことが、明らかになる。マルチェリーナは、知らずに自分の息子と結婚しようとしていたのだった。

*川中島の合戦で受けた刀傷→〔影武者〕1の『影武者』(黒澤明)。  

★4.仏像に残る証拠の傷あと。

『古本説話集』下−53  丹後国の山寺に冬ごもりする僧が、飢えて観音に助けを求める。鹿が現れたので、僧は鹿の両腿の肉を切り、鍋で煮て食う。春になって村人たちが寺を訪れると、鍋に木切れがあり、観音像の両腿がえぐられていた。僧は「観音が鹿に化身されたのならば、もとどおりになり給え」と祈り、観音像の傷口は見る間にふさがる。以来、この寺を成合(なりあい)寺という〔*『今昔物語集』巻16−4の類話では、観音は猪に化して僧に食われる〕。

『今昔物語集』巻16−3  周防の判官代が敵の待ち伏せに会い、身体中を斬られたが、少しも傷を負わない。彼は三井寺の観音が身代わりになった由の夢を見て、急いで参詣すると、観音像が満身傷だらけになっていた。

『三国伝記』巻9−11  観音を信仰していた孫敬徳が無実の罪で処刑されようとした時、刀が三段に折れた。人を替え刀を替えても、刀が折れること三度に及んだため、彼は赦免される。僧坊に戻り観音像を見ると、頸に三つの傷があった。

★5.犯人の身体に残る証拠の傷あと。

『サテュリコン』(ペトロニウス)「トルマルキオンの饗宴」  ニケロスが宴席で語る物語。「わしが奴隷の身分だった頃。主人の家に同宿する兵士が狼に変身するのを、わしは見た。愛人メリサから「狼の首に投げ槍を突き刺してやった」と聞いて、わしが帰宅すると、兵士が寝床に臥し、彼の首の傷を、医者が手当てしていた。わしは「兵士が狼憑きだ」と知って、以後、彼とともにパンを食べることもできなくなった→〔月の光〕1

『八つ墓村』(横溝正史)第7〜8章  田治見辰弥は生まれ故郷の八つ墓村へ帰り、連続殺人事件にまきこまれる。辰弥の姉春代は鍾乳洞内で襲われ殺されるが、その時、犯人の左小指を噛んで深い傷を負わせる。犯人は傷を秘密に治療しようとし、そのため傷口から黴菌が入り、全身紫色にはれ上がって死んだ。

*殺人犯の指を噛み切る→〔指を切る〕6の『富士額男女繁山(ふじびたいつくばのしげやま)』(河竹黙阿弥)。 

★6.柱に残る証拠の傷あと。

『大鏡』「道長伝」  五月下旬の雨の夜。清涼殿に伺候する道隆・道兼・道長が、肝試しに出かける。道隆・道兼は途中で逃げ帰ったが、道長は大極殿まで行き、証拠に高御座南面の柱のもとを、刀で削り取って来た。柱の削りあとは、今でも残っている。

★7.刀傷と鉄砲傷。

『仮名手本忠臣蔵』6段目「与市兵衛内」  街道で殺されていた与市兵衛の死体を、猟師たちが運び込む。早野勘平は「自分が昨夜、猪と間違えて舅の与市兵衛を鉄砲で撃ち殺したのだ」と思い、面目なさに切腹する。ところが、千崎弥五郎らが死体の傷口を調べると、鉄砲傷ではなく刀傷だった。与市兵衛を殺したのは勘平ではなかった→〔仇討ち(父の)〕4。  

『南総里見八犬伝』第7輯巻之4第69回〜巻之5第71回  甲斐国の山林管領職・泡雪奈四郎が、村長四六城木工作(よろぎむくさく)を鉄砲で撃ち殺す。木工作の妻夏引(なびき)は奈四郎と不義の関係にあり、木工作殺しの罪を犬塚信乃に着せようと、信乃の短刀に鶏の血を塗りつけて訴え出る。しかし犬山道節が眼代(代官)甘利尭元に扮して現れ、「死体の傷口は刀傷ではなく鉄砲傷である」と言って、信乃を救う。

★8.冥府で受けた傷が、蘇生後の身体に残る。

『沙石集』巻2−5  殺生を業とする男が、死んで地獄へ行く。一人の獄卒が、矢を男の背中から前へ射通す。もう一人の獄卒が、鉾(ほこ)で男を貫き、地面に突き通す。男は生前、地蔵を拝んでいたおかげで蘇生した。しかし胸に疵(きず)が残り、それが瘡(かさ)となった。男は長い間病み苦しんだ後に、出家した。

*地獄で受けた火傷あと→〔火傷(やけど)〕6の『今昔物語集』巻7−46。 

★9.神が受けた傷を、人間の身体に移す。

『エシュ神の悪戯』(アフリカの昔話)  ショポナ神にほうきで打たれ罰せられて(*→〔太陽と月〕7)、エシュ神の身体はあざだらけになった。エシュ神は傷を冷やそうと川へ飛び込み、水の中から唱えた。「私が受けた傷は、今日から後、この川で水を浴びた者の身体に移れ。その傷は火のように燃えろ」。こうして、エシュ神が受けた罰は人間に引き継がれ、天然痘として、今でも人々に恐れられている(ナイジェリア、ヨルバ人)。

★10a.殺された人のそばに、その殺害者が近寄ると、死体の傷口から血が流れ出る。

『ドイツ伝説集』(グリム)354「ユダヤ人に殺された少女」  ユダヤ人たちが、七歳の少女を殺して河へ棄てた。血管を切り開かれ、布でくるまれた少女の死体が、漁師に発見される。殺人の疑いで呼び出されたユダヤ人たちが死体に近づくと、傷口からどっと血が流れ出る。

『トム・ソーヤの冒険』(トウェイン)11  夜の墓場でインディアン・ジョーがロビンソン医師を刺し殺し、その罪を仲間のポッターに着せる。翌日発見されたロビンソン医師の死体が荷車で搬送されるのを、インディアン・ジョーも手伝い、その時死体から血が流れる。しかしポッターが近くにいたため、ポッターゆえに流れた血だと見なされてしまう。

『ニーベルンゲンの歌』第17歌章  ジークフリートの死を悼んで集まった人々に対し、妃クリエムヒルトが、「身におぼえのない者は、遺骸の側へ寄ってそれを証明せよ」と要求する。殺害者ハゲネが側へ寄ると、遺骸の傷口から血が噴き出る。

『リチャード三世』(シェイクスピア)第1幕  王(ヘンリー六世)の柩に、その殺害者グロスター公リチャードが近づくと、乾いていた傷口から再び血が流れ出した。グロスター公は王殺しを隠すことなく開き直り、彼を「人殺し! 悪魔!」と罵るアンに求愛した〔*アンは王の息子エドワードの妻。エドワードもグロスター公に殺された〕。

★10b.優れた騎士が触れると、それまで治らなかった傷口がふさがる。

『アーサーの死』(マロリー)第19巻第10〜12章  アリー卿が決闘で某騎士を殺すが、アリー卿自身も十ヵ所以上の傷を負った。殺された騎士の母親が魔法を使い、「最も優れた騎士に診てもらうまでは、アリー卿の傷がいつまでも治らず、膿み、出血するように」と呪う。七年がたち、アーサー王をはじめ百人以上の騎士が診るが、アリー卿の傷は治らない。騎士ラーンスロットがアリー卿に触れて、ようやく傷口はふさがる。

★11.女性器を見て、傷あと・傷口と思う。

『カター・サリット・サーガラ』「マダナ・マンチュカー姫の物語」2・挿話8  婆羅門が薪を切る時に傷を負い、悪鬼ピシャーチャに治してもらった。ところがピシャーチャは、「俺がもう一度治すことができるように、第二の傷を与えよ。さもないとお前を滅ぼす」と要求する。婆羅門の娘が性器を見せて「この傷を治せ」と言うので、ピシャーチャは膏薬を塗るが治せず、さらに娘の肛門を見て「また新たな傷が生じた」と思い、恐れて逃げる。

『パンタグリュエル物語』第四之書(ラブレー)第47章  農夫が悪魔から爪による引っ掻き合戦を挑まれ、負ければ畑の作物を取られてしまうので困惑する。農夫の老女房が悪魔をだまそうと、「夫が爪を試すために、小指で私の股をちょっと引っ掻いて、傷をつけた」と言って性器を見せる。悪魔は大きな傷口に驚き、「とてもかなわない」と思って退散する。

『嫁の鉈傷』(日本の昔話)  嫁と婿が川を歩いて渡る時、婿は嫁の股を見て「鉈傷がある」と驚く。婿は姑に追い出される。

 

※眉間に残る三日月形の刀傷→〔額の傷〕2の『旗本退屈男』(佐々木味津三)。 

 

 

【犠牲】

 *関連項目→〔人柱〕

★1.一人が犠牲になって、大勢の人々を救う。

『グスコーブドリの伝記』(宮沢賢治)  木こりの子グスコーブドリは成人後、イーハトーブ火山局で元気に働いた。彼が二十七歳の年、寒冷な気候がイーハトーブを襲った。カルボナード火山を爆発させて気温を上げれば、飢饉を回避できる。しかしその作業をする最後の一人は、火山島から逃げられない。グスコーブドリが自ら犠牲となろうと志願し、イーハトーブの人々は無事に冬を過ごすことができた。

*→〔惑星〕5の『アルマゲドン』(ベイ)も同様に、一人が爆発現場に残って命を捨て、大勢の人々を救う物語である。

『ゴジラ』(香山滋)  暴れるゴジラから日本国民を救うため、化学者芹沢は、自ら開発した酸素破壊剤オキシジェン・デストロイヤーを使って、ゴジラを殺す(*→〔怪物退治〕3a)。しかし、この武器自体が人類にとって原水爆以上の脅威となるので、芹沢は、製造方法を知るただ一人の人間である自分自身を、ゴジラとともに抹殺する。

『今昔物語集』巻2−28  舎衛国の流離(るり)王が、迦毘羅衛国の釈種(釈迦一族)に、戦争をしかける。釈種は殺生戒を守っているので、たちまち敗北する。釈種の長者釈摩男(しゃくまなん)が、「私は今から水底に沈む。私が沈んでいる間だけ、釈種の人々を逃がしてやってほしい」と流離王に請う。釈摩男は水中に入ると、頭髪を木の根に結びつけて死んだ〔*しかし釈種の人々は逃げ切れず、大勢が殺された〕。

『佐倉義民伝』  下総国佐倉藩の二百八十四ヵ村は、領主堀田上野介の悪政と重税に苦しんでいた。名主木内宗吾は一身を捨てて農民たちを救うべく、ひそかに江戸へ出て、東叡山寛永寺で将軍義政に直訴する。農民たちは救われるが、宗吾は捕らえられ、処刑された〔*宗吾の妻子も刑死する〕。

『塩狩峠』(三浦綾子)  名寄から札幌へ向かう列車が塩狩峠を越える時、機関車の連結部がはずれて、客車だけが下り坂を走り始める。前方に急勾配のカーブがあり、脱線転覆は必至である。乗客の一人・敬虔な青年クリスチャン永野信夫は、線路上に飛び降り、自らの身体をもって車両を止め、他の乗客たちの命を救った。

*一人の女性が自分の血を吸血鬼に与えて、町を救う→〔吸血鬼〕1の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(ムルナウ)。

*漂流するボートの中の男が、自分の肉を他の人に食べさせる→〔船〕7bの『自己犠牲』(安部公房)。

★2.神の子が犠牲になって、全人類を救う。

『失楽園』(ミルトン)第3巻  天上界の王座に坐す神が、アダムとイヴの犯すであろう罪を予見し、「その子孫である人間たちは堕落し、死なねばならぬ」と宣告する。神の右手に坐す御独子(おんひとりご)が、「私の命をもって、人間の死の罪を償いましょう」と、人間を救うために自ら犠牲になることを申し出る。神は喜び、御独子に「受肉し、処女の子として地上に誕生せよ」と命ずる〔*御独子はイエス・キリストとして生まれる〕。

★3.ロボットが犠牲になって、地球人類を救う。

『鉄腕アトム』(手塚治虫)テレビアニメ・第193話「地球最大の冒険」  太陽黒点に異常が起こり、地球の温度が急上昇する。アトムがロケットに乗り、太陽の活動を鎮静化させるためのカプセルを発射するが、隕石がカプセルに衝突し、軌道が狂ってしまう。アトムは自らカプセルにまたがり、進路を太陽に向け直して、カプセルもろとも太陽に突入する。

★4a.動物が自分の身を犠牲にして、人間を救う。 

『ジャングル大帝』(手塚治虫)  不思議な力を持つ月光石を求めて、A・B両国の探検隊が海抜五五三〇メートルのムーン山に登攀し、白ライオンのレオが同行する。しかし激しい吹雪で隊員たちは次々に倒れ、ヒゲオヤジ以外は皆死んでしまった。レオは「わしを殺して肉を食べ、毛皮を着て下山しなさい」と告げ、わざとヒゲオヤジのナイフに刺されて死ぬ〔*『ブッダ』の中に出てくる、兎が自分の肉を飢えた老人に食べさせる物語と類似の発想〕→〔兎〕2

★4b.人間が自分の身を犠牲にして、動物を救う。

『三宝絵詞』上−11  国王の三人の王子たちが竹林に出かけ、七頭の子を産んで衰弱した一頭の虎を見た。長男の王子が「この虎は、食物を探すことができず、飢えて自分の子を喰うであろう」と言った。末子の薩タ王子が「虎の命を救おう」と考え、衣を脱いで竹にかけ、自分の身を虎に喰わせた。

★4c.動物が自分の身を犠牲にして、仲間の獣たちを救う。

『大智度論』巻26  仏は遠い過去において、大きな身体をした力のある鹿だった。ある時、野火が起こり、獣たちは逃げ場を失った。鹿は自分の大きな身体を橋とし、背中を獣たちに踏ませて、川の対岸へ避難させる。鹿の皮と肉はことごとく壊れたが、慈愍の力をもって耐え忍び、ついに死に至った。

★4d.柳の木が自分の身を犠牲にして、蝗(ばった)の害を防ぐ。

『聊斎志異』巻4−138「柳秀才」  沂州の知事が蝗の害を心配していると、夢枕に一人の秀才が立ち、「明日、西南の道を、ろばに乗った婦人が通る。それが蝗の神だから、頼めば害を免れるだろう」と教えた。翌日、知事は、ろばに乗る婦人を待ち受けて懇願する。婦人は「柳秀才のおしゃべりめ。その身に災いを与えてやるわ」と言う。やがて蝗の大群が飛んで来て天日を暗くしたが、田圃の稲には降りず、柳の木々の葉を食い尽くして去った。それで、あの秀才は柳の神だということがわかった。

★5.王が自らの命を犠牲にして、国に勝利をもたらす。

『ゲスタ・ロマノルム』41  アテナイ王コドルスは、ドーリア人との戦争に際して、アポロ神から「コドルス自身が敵の剣で倒れなければ、勝つことはできぬ」との託宣を得た。それを知ったドーリア人は、戦場でコドルスに傷を負わせないようにした。コドルスは王衣を別の着物に着替えて敵軍へ攻め込み、敵兵の槍を心臓に受けて死んだ。コドルスは自分の死によって、アテナイに勝利をもたらした。   

★6.自分の安全のために、他人を犠牲にする。

『魔弾の射手』(ウェーバー)  狩人カスパールは、自分の魂を悪魔ザミエルに渡す代わりに、「新たな犠牲をささげよう」と提案する。彼は悪魔に「明日、狩人仲間マックスの撃つ弾丸を、マックスの恋人アガーテに命中させよ」と請う。アガーテが死に、マックスも悲嘆して自殺すれば、二つの魂が悪魔の手に入るからである。しかしマックスの撃った弾丸はカスパールに当たり、マックスとアガーテはめでたく結婚する。   

★7.自分の思いを犠牲にして、友達の恋を叶えてやる。

『それから』(夏目漱石)  長井代助と平岡常次郎とは、中学時代からの親友だった。平岡が三千代への恋心を代助に打ち明けた時、代助は「自分の未来を犠牲にしても、平岡の望みを叶えるのが、友達の本分だ」と思った。代助は自らの三千代への思いを隠して、平岡と三千代の仲をとりまとめた(*→〔チフス〕1)。〔*しかし二人の結婚から三年後、代助は三千代に「僕の存在にはあなたが必要だ」と訴え、平岡に「三千代さんをくれないか」と言う〕。   

*『こころ』では、Kがお嬢さんへの恋心を、親友の「先生」に打ち明ける→〔裏切り〕2

 

※嫁が自分の命を犠牲にして、家にまつわる呪いを消滅させる→〔呪い〕11の『経帷子の秘密』(岡本綺堂)。

※自分の命を犠牲にして、車にひかれそうな子供を助ける→〔仮面〕8の『タイガーマスク』(梶原一騎/辻なおき)。

 

 

【狐】

★1.狐が、友人・知人などに化ける。

『今昔物語集』巻27−29  源雅通中将の家に同じ姿形の乳母二人が現れ、中に幼児を置き、左右の手足を取って引き合う。一方は狐であろうと考えた中将が、刀をひらめかして走りかかると、一人の乳母はかき消すように失せた。

『遠野物語』(柳田国男)94  菊蔵という男が、姉の家でふるまわれた残りの餅を懐にして、帰る途中で友達の藤七に出会う。藤七が「相撲を取ろう」と誘い、二人はそこで相撲を取る。藤七はいつになく弱く、菊蔵は三度とも勝ったが、気がつくと餅がなくなっている。狐が藤七に化けて、餅を取ったのだった。

『義経千本桜』「道行初音旅」  内裏の重宝「初音の鼓」が源義経へ下賜され、義経はその鼓を静御前に預けた。鼓の皮にされた狐夫婦の子が(*→〔太鼓〕7)、家臣佐藤忠信に化けて静御前につき従い、静御前と鼓を守護する。忠信の正体が狐であると知った義経は、鼓を狐に与え、狐は礼を述べて姿を消す〔*歌舞伎では、鼓を持った狐が宙乗りになり、客席の上を飛んで行く〕。

*狐が妻に化ける→〔二人妻の正体〕1の『今昔物語集』巻27−39。

*狐が伯父に化ける→〔変化(へんげ)〕3の『釣狐』(狂言)。

★2.雄狐が姫君を恋し、女に化けて近づく。

『玉水物語』(御伽草子)  雄狐が、高柳宰相の姫君を見そめて恋い焦がれる。しかし雄狐は、「狐の身で人間の姫君と交われば、姫君の御身は『いたづら』になる(姫君の命を奪うことになる、あるいは、姫君は人間世界から追放される)」と考え、結婚を断念する。雄狐は女に化けて姫君に仕え、「玉水の前」の名をたまわる。やがて姫君は、帝のもとへ入内する。雄狐は、自分の正体と姫君への思いを書き記して小箱に収め、姫君に渡して姿を消す。

★3.狐が化ける現場を、人間が目撃する。

『短夜』(内田百閨j  狐が泥を頭からかぶって女に変身し、葉を集め丸めて赤ん坊を作るのを、「私」は目撃する。狐が婆さんを騙そうとするので、「私」は、「それは狐だ。赤ん坊を青松葉で燻(くす)べれば、葉っぱになるはずだ」と教える。しかし燻べると赤ん坊は死んでしまい、「私」は途方に暮れる→〔坊主頭〕3

*狐が女に化ける現場を見た男が、逆にその狐を化かす→〔狐〕6の『王子の狐』(落語)。

*狐が娘に化ける現場を見た男が、それでも狐に化かされてしまった→〔穴〕8の『九郎蔵狐』(落語)。

★4.人間なのに、狐が化けたもの、と見なす。

『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)4編上「御油〜赤坂」  喜多八が良い宿を取るため先行し、弥次郎兵衛が御油から赤坂までの夜道を一人歩く。ところが喜多八も弥次郎兵衛も、それぞれ「松原に狐が出る」と聞かされる。喜多八は「やっぱり弥次さんと一緒に行こう」と、立ち止まって弥次郎兵衛を待つ。弥次郎兵衛は、松原に立つ喜多八を狐だと思い、縛って赤坂まで連れて行く。

『耳袋』巻之7「狐即坐に仇を報ずる事」  茶師・孫兵衛が、寝ている狐を驚かしたことがあった。その後、狐が孫兵衛に化けて庭から表へ行くのを侍たちが見、玄関で待ち伏せると、そこへ本物の孫兵衛がやって来る。孫兵衛は狐と見なされ、棒や箒で打たれる。

*人間を「狐だ」と誤解し、自分の眉に唾をつける→〔眉毛・睫毛〕2の『狐塚』(狂言)。

★5.人間を化かす能力はあっても、それができない狐。

『狐のためいき』(星新一)  「私」は、伊豆の天城の山に住む狐です。「私」は人間を化かすことができません。人間の苦しさを知っているから。都会の人は、知っていて化かされているのです。「化かされた」と気づくまいと自ら努め、化かされたことを楽しい夢に作り上げずにいられないのです。仲間の狐たちは人間を化かしたことを自慢し合い、「私」をあざけります。明日から「私」も平凡な狐になって、人間を化かしましょうか。でも、「私」にそれができるでしょうか〔*星新一が二十二歳の時の処女作〕→〔狐女房〕2

★6.人間が狐を化かす。

『王子の狐』(落語)  狐が女に化けるところを見た男が、この狐を化かそうと考える。男は狐を料理屋に連れこんで飲み食いし、狐を酔わせて逃げる。狐は正体を現し、店の衆に追い出される。翌日、男はたたりを恐れ、牡丹餅を持って狐を見舞う。狐は牡丹餅を「馬糞ではないか?」と疑う。

★7.人間が狐に化ける。

『閲微草堂筆記』「如是我聞」140「狐に化けた人」  男が或る家の美女を見そめ、三百金を出して妾にし、美女の家に住み込んで仲良く暮らす。まもなく科挙の試験があり、男が試験をすませて帰宅すると、家は荒れ、無人になっていた。或る人が「それは狐だ」と言った。別の人は「それは美女を餌にして男から金を盗み、狐のしわざに見せかけたのだ」と言った。

★8.狐が人を助ける。

『本朝廿四孝』4段目「十種香」〜「奥庭」  武田勝頼が「花作り蓑吉」と称して、諏訪の長尾(上杉)家に潜入する。長尾謙信は蓑吉の正体を見抜き、塩尻へ使いにやって暗殺しようとする。勝頼の許婚・八重垣姫が諏訪明神の法性の兜を手にすると、明神の使いである狐の霊力が乗り移り、姫は諏訪湖の氷上を駈けて、勝頼に危急を知らせる。

*多くの人を助けた狐が、龍になった→〔昇天〕2の『南総里見八犬伝』第9輯巻之13之14第116〜117回。

★9.狐の教え。

尾曳稲荷の伝説  厩橋城築城を命ぜられた大工の棟梁が、利根川べりにたたずんで構想をねっていた。霧の中に狐があらわれ、長い尾を引いて、あちらに行き、こちらに行きして、姿を消した。尾のあとは赤い筋に変わり、厩橋城の図面となった。棟梁はその図面にしたがって立派な城を造り、殿様からほめられた。狐が姿を消したあたりが、今の尾曳稲荷である(群馬県前橋市西片貝町)。

★10.狐に生まれ変わる。

『無門関』(慧開)2「百丈野狐」  仏陀以前の昔。百丈山の修行者が、弟子から「大修行底の人も、因果の法則から逃れられないのか?」と問われて、「因果を超越することができる」と、誤った答えをした。そのため修行者は野狐の身を受け、五百生の間、狐として生まれ変わり死に変わりした〔*後に修行者は百丈和尚から教えを受け、野狐の身を脱することができた〕。

*「狐のように速く走る」と誉(ほ)められた子が、狐に転生した→〔転生先〕5aの『日本霊異記』中−41。

*『宝物集』(七巻本)巻2は、「いったん畜生道に生まれると、そこから出ることは難しい」と記す→〔犬に転生〕5〔鳩〕3b

★11.虎の威を借る狐。 

『戦国策』第14「楚(1)」172  狐が「天帝は私を、すべての獣の長に任じた」と称し、「嘘だと思うなら私の後からついて来い」と虎に言う。虎が狐の後を歩いて行くと、獣たちはみな逃げ去る。獣たちは虎を見て逃げたのだったが、虎はそれに気づかず「なるほど、皆、狐を恐れている」と思った。  

★12a.狐火。

『懶惰の歌留多』(太宰治)「ぬ」  「私」が十八歳、高等学校一年生の夏のこと。邑はずれのお稲荷の沼に、毎夜、五つ六つ狐火が燃えるとの噂があり、「私」は自転車に提灯をつけて見に行く。狐火と見えたのは、沼の岸の柳にぶら下げた三個の燈籠で、五人の老爺が酒盛りをしていた。老爺たちも、「私」の自転車の提灯の火を見て、「狐火だと思った」と言って笑った。

★12b.狐の嫁入り。

『夢』(黒澤明)第1話「日照り雨」  日が照っているのに雨が降る。「こんな日には狐の嫁入りがある。けっして見てはならない」と母が言う。しかし「私(五歳ぐらいの男児)」は、杉の林で狐の嫁入り行列を見てしまう。母は「狐が怒って、白鞘の短刀を置いていった。これで腹を切る覚悟で謝りに行け」と言う。「やがて出る虹の下に、狐の家はある」と教えられ、「私」は短刀をかかえて、虹の方へ歩いて行く。

★13.自分以外すべて狐。

『かめれおん日記』(中島敦)  幼い頃、「私」は、世界は自分を除く外みんな狐が化けているのではないか、と疑ったことがある。父も母も含めて、世界すべてが自分を欺(だま)すためにできているのではないかと。そしていつかは、何かの途端に、この魔術の解かれる瞬間が来るのではないかと。今でも、そう考えられないことはない。

*「あなた」以外すべて吸血鬼→〔吸血鬼〕3bの『抑制心』(星新一)。 

 

※狐に化かされて、馬の尻をのぞく→〔穴〕8の『九郎蔵狐』(落語)。

※狐に化かされて、道に迷う→〔迷路〕4の『仙境異聞』(平田篤胤)上−3、『猫町』(萩原朔太郎)。

※狐の尾に火をつける→〔尾〕2aの『イソップ寓話集』283「火を運ぶ狐」、→〔尾〕2bの『士師記』第14〜15章。

※狐の鳴き声→〔動物音声〕5の『狐』(新美南吉)など。

※狐の呼びかけ→〔呼びかけ〕1の狐の風(水木しげる『図説日本妖怪大鑑』)。

※狐の湯浴み→〔温泉〕9の『白狐の湯』(谷崎潤一郎)。

※狐や狸が汽車に化ける→〔狸〕5bの『現代民話考』(松谷みよ子)3「偽汽車ほか」第1章。

※狐や狸が、いろいろなものに化ける能力を有する理由→〔狸〕11の『悟浄歎異』(中島敦)。 

 

 

【狐つき】

 *関連項目→〔憑依〕

★1.狐が人間にとりつく。

『紀伊国狐憑漆掻語(きいのくにのきつねうるしかきにつくものがたり)(谷崎潤一郎)  漆かきの職人・丑次郎が狐に憑(つ)かれ、毎晩、三人の男が「さあ、行こら」と誘いに来る。丑次郎は、はじめのうちは「あれは狐だから行ってはいけない」と我慢するが、そのうち、どうしても行きたくなって、男たちについて行く。小便くさい水を飲んだり、村はずれの谷や山を歩いたり、フンドシが解けたままの姿で、丑次郎は方々を引っ張り回される。翌朝、彼を捜す村人たちに発見され、行者に祈祷してもらって、ようやく正気に戻った。

『日本霊異記』下−2  永興禅師が病人を加持すると、病人は「私は狐だ。この病人は前世で私を殺した。だから私はその怨みを報いるのだ。しかしこの病人は死ぬとすぐ犬に転生して、私を殺すだろう」と言った。永興禅師が祈祷を続けても、狐は憑依したまま離れず、病人を殺した。

★2.狐が人間にとりつくやり方。

『仙境異聞』(平田篤胤)上−3  天狗界で修行した寅吉少年が語る。「狐は自らの体を巣穴に置き、魂だけを飛ばして人体に入れる。魂が抜けたままだと狐の体は腐ってしまうので、一昼夜に三度ずつ、魂は人体から出て巣穴へ帰る。その間は、狐にとりつかれた人は、いくらか正気に戻るのだ」。

★3.狐は、生きた人間ばかりではなく、死者にもとりつくことがある。

『遠野物語』(柳田国男)101  深夜、旅人が知人の家に立ち寄り、夕方死んだ老女の死体の番を頼まれる。しばらくすると、老女の死体が床(とこ)の上にむくむくと起き上がるので、旅人は肝をつぶす。流し元の水口の穴から、狐が死人を見つめており、旅人は「こいつのしわざか」と合点して、棒で狐を打ち殺した。

★4.狐がとりついて、昔の合戦の物語をする。

おとらギツネの伝説  昔、長篠城址に、神通力を持つ「おとらギツネ」がいて、よく人にのりうつって、長篠の合戦のありさまを詳しく語った。のりうつられた人は、左目から目ヤニを出し、左足をひきずるので、すぐわかる。天正三年(1575)の合戦の折、「おとら」は流れ弾に当たって、左目と左足を失ったのだ(愛知県南設楽郡鳳来町)〔*「おとら」がとりついた時には、遠州秋葉山の犬神をお迎えする。「おとら」は犬神が苦手で、立ち退くという〕。

★5.本物の狐つきかどうか、疑わしいこともある。

『宇治拾遺物語』巻4−1  狐にとりつかれた女が、「しとぎ(米粉の餅)でも食べて塚屋(巣穴)へ帰ろう」と言う。しとぎを食べさせると、女は「あな、うまや。あな、うまや」と言うので、人々は「この女は、しとぎ欲しさに、狐つきのふりをしているのだ」と思う。女は「塚屋の女子供たちにも食べさせたい」と言い、人々は、しとぎを紙に包んで渡す。女はその場に倒れ、しばらくして起き上がると、懐に入れたはずの紙包みが、なくなっていた。

★6.狐がとりつくのではなく、人間の方からすすんで狐に同化する。

『女人訓戒』(太宰治)  狐の襟巻をすると、急に嘘つきになるマダムがいた。ふだんは謙遜なつつましい奥さんなのだが、狐の襟巻を用いて外出すると、たちまち狡猾きわまる嘘つきに変化する。これは、狐がマダムを嘘つきにしているのではない。マダムは「狐は人をだますものだ」と盲信しており、マダムの方からすすんで、マダムの空想の狐に同化しているのである→〔入れ目〕6

*狐つきのような症状→〔動物音声〕5の『こん』(星新一『悪魔のいる天国』)。 

★7.芸術狐がとりつく。

『芸術狐』(三島由紀夫)  大学の芸術科の学生で、バレリーナを目ざす深瀬鳥子に、芸術狐がとりついた。同棲相手の照夫が、ボオドレエルの「芸術はプロスチチュッション(売春)にほかならない」という言葉を教え、「芸術家は万人に身を捧げなきゃならない」と説く。鳥子は犠牲的精神を発揮し、売春によって、バレエ研究所の建設資金三百万円を稼ぐ。しかしその金は、照夫に持ち逃げされてしまった。鳥子はガス栓をひねり、「芸術って死なのねえ」と呟く。

 

 

【狐女房】

 *関連項目→〔魚女房〕〔蛙女房〕〔熊女房〕〔猿女房〕〔鶴女房〕〔蛇女房〕

★1.狐女房。『鶴女房』など一般の異類婚姻譚と異なり、夫の「のぞき見」による破局ではなく、犬のために女房が去ることが多い。

『芦屋道満大内鑑』2〜4段目  悪右衛門が部下を引き連れ、信太の森で狐狩りをし、追われた白狐が安倍保名に救いを求める。保名は白狐を祠に隠し、悪右衛門たちと闘って傷を負う。白狐は保名の恋人・葛の葉に身を変じて現れ、保名を介抱する。保名と葛の葉(白狐)は夫婦となり、童子(後の晴明)をもうけ、六年間むつまじく暮らす→〔母さがし〕2

『木幡狐』(御伽草子)  木幡の里に住む狐の姫君きしゆ御前は、十六歳の時、美貌の三位中将を見て恋い慕い、人間に化けて契りを結んだ。しかし、二人の間に生まれた若君が三歳になった頃、屋敷に犬が献上される。きしゆ御前はこれをひどく恐れ、泣く泣く家を出る。そして嵯峨野に分け入り、出家して庵にこもった〔*動物が人間との結婚に破れ出家する、という点で、→〔鼠〕4の『鼠の草子』と同じ〕。

『任氏伝』(唐代伝奇)  鄭六は、絶世の美女任氏と親しくなる。任氏は狐であったが、鄭はそれを知っても心は変わらず、彼女を愛する。しかし、任氏は猟犬に追われ噛み殺された。

『捜神記』巻18−13(通巻425話)  孝という兵士が逃げて長い間姿を見せぬので、大勢で捜すと、郊外の墓穴の中にいた。狐が阿紫と名乗る美女に化けて孝を誘い、孝は彼女を妻として暮らしていたのだった。

『曾我物語』巻5「三原野の御狩の事」  在中将業平が、木幡山の辺で会った女を妻とするが、女はしばらくして姿を消した。業平は女を尋ねて木幡山の奥に到り、古塚に集まる多くの狐を見て、女が狐だったことを知る。

『日本霊異記』上−2  欽明天皇の御代(539〜571)。美濃の国の男が、良き配偶者を捜し求めて道を行き、広野で出会った美女を家へ連れ帰って妻とする。やがて男と妻との間に、一人の男児が生まれる。男の家の飼い犬も仔を産み、その犬の仔に追われて、妻は狐の正体をあらわす。妻は家を去るが、男が「子まで生(な)した仲ゆえ、私は忘れない」と言うので、その後も男のもとへ来て共寝をした。それゆえ「きつね(来つ寝)」という。

*山道で出会った美女を妻にしたら狼だった、という物語もある→〔狼〕4の『聊斎志異』巻5−197「黎氏」。

『洛陽伽藍記』巻4「洛陽大市北部」  孫巌は、めとって三年になる妻が異類だと知って離縁する。隣人に追いかけられた妻は、狐と化して逃げ去った。

『聊斎志異』巻4−153「辛十四娘」  馮の妻・辛十四娘は狐だった。彼女は、無実の罪で処刑される馮を救い出した後、にわかに容色が衰え、半年ほどで老婆のごとくなって死んだ。後、馮の下男が遠方で辛十四娘に会ったが、彼女は「今、私は仙人の籍に入っている」と言った。

『聊斎志異』巻5−174「鴉頭」  王文は妓女鴉頭と駆け落ちする。実は鴉頭は狐であり、その母親によって鴉頭は連れ戻され、監禁された。鴉頭の産んだ子・王孜は棄てられたが、数年後に父・王文が、孤児院で王孜を見つけた。王孜は成長して、十八歳の時に鴉頭を救い出した。そして、鴉頭の母親と姉を殺した。

『聊斎志異』巻7−286「阿繍」  劉子固は美女阿繍との結婚を望むが、別れ別れになってしまった。狐が阿繍そっくりに化けて劉子固を慰め、さらに、戦乱に遭遇した阿繍を助けて、劉子固と結婚させる。その後も狐は阿繍に化け、「どちらが本物か?」と劉子固を試したりする。実は狐と阿繍は、前世で狐の姉妹だった。阿繍は前世で早死にして、人間に生まれ変わっていたのである。

★2.人間と狐の交わりは禁忌。

『狐のためいき』(星新一)  「私」は伊豆に住む狐です。「私」には人間の血がまざっています。狐は人を化かしても、けっして体をまかせることはないのですが、「私」の母狐はそれをしてしまいました。相手の男は、恋人に欺かれ、事業は仲間にだまされ、友達に見放されて、伊豆へ死にに来たのです。あくまで人を信じ、人を疑わなかった男のあどけない目を見て、「私」の母狐はすべてを許しました。「私」が人間を化かせない狐になったのも、母狐が禁を犯した罰かもしれません〔*星新一が二十二歳の時の処女作〕→〔狐〕5

『今昔物語集』巻14−5  男が朱雀門の前で、十七〜八歳の美女に出会い、契りを交わす。美女は「このことのために、私は命を失うでしょう」と言い、男の扇を取って去る。翌日男は武徳殿へ行き、狐が扇で顔をおおって死んでいるのを見出して、「自分は狐と交わったのだ」と知る。男は『法華経』を供養し、その功徳で女(狐)はトウ利天に生まれた〔*原拠の『大日本国法華験記』下−127では、狐が男に「私と交われば、貴方は死にます」と警告し、男は「かまわない」と言う。狐は「それなら、私が貴方の代わりに死にましょう」と言って、男と交わる。『古今著聞集』巻20「魚虫禽獣」第30・通巻681話に類話〕。

★3.人間と狐女房との間に生まれた美女。

『聊斎志異』巻2−48「嬰寧」  王子服は元宵節の日に、美女・嬰寧を見そめて結婚するが、それは王の母方の秦伯父が狐妻との間にもうけた娘だった。嬰寧は何かというとよく笑い、翌年生まれた男児も母親ゆずりで、人見知りせずよく笑った〔*隣家の息子が横恋慕した時も、嬰寧は笑っていたので、息子は「私に気があるのだ」と誤解し、彼女に抱きついた→〔にせ花嫁〕4b〕。

★4.人間の妻が、狐になってしまう。

『狐になった人妻』(ガーネット)  テブリック氏の新妻シルヴィアが、ある日突然、狐に変身する。テブリック氏の妻への愛は変わらないが、狐妻はしだいに人間としての心を失って行く。狐妻はテブリック氏のもとから逃げ出し、雄狐との間に五匹の子狐をもうける。それを知ったテブリック氏は、雄狐に嫉妬する。やがて狐狩りの季節が来て、狐妻は猟犬たちに追われ、噛み殺される。

★5.人間に害をなす妖狐。

『今昔物語集』巻16−17  賀陽良藤は、狐の変じた美女に誘われ、夫婦となった。彼は正気をなくし、蔵の床下を大きな屋敷と思って、そこで暮らす。十三日後、良藤は痩せ衰えた姿で救出される。

『殺生石』(能)  天竺・唐土で悪事を働いた妖狐が、日本に渡って鳥羽院の寵妃玉藻前となった。玉藻前は院の命をねらい、朝廷の転覆を謀っていた。安部泰成が玉藻前を調伏し、玉藻前は遠く那須野へ逃げたが、三浦介・上総介に射殺された。

『封神演義』第4〜6回  冀州侯蘇護の娘・妲妃(だっき)が殷の紂王に召され、都・朝歌へ向かう。旅中、千年の女狐が妲妃を襲い、その魂魄を奪って妲妃に姿を変える。天文官が妖気を見て、宰相が諫言するが、紂王は妖狐の化身の妲妃を愛し、政務を怠る。

*狐の化身と交わって痩せ衰える→〔性交と死〕1の『西鶴諸国ばなし』巻3−4「紫女」。

 

 

【切符】

★1.どこまででも行ける切符。

『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)  銀河鉄道の車掌が「切符を拝見」と言って、やって来る。ジョバンニのポケットには、いつのまにか緑いろの紙切れが入っていた。それを見せると、車掌は「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。よろしうございます」と言う。乗客の鳥捕りが「こいつをお持ちになれぁ、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、大したもんですね」と感心する。

★2.地獄の片道切符。

『墓場の鬼太郎』(水木しげる)  鬼太郎が地獄行きの切符を、血液銀行の社員水木の家の、下駄箱の上の柱の間に隠しておく。水木はその切符を盗んで、地獄の入り口まで行く。しかし水木は生きた人間なので、地獄の戸籍がなく、それ以上進むことができない。切符は片道切符だから、現世へ戻ることもできない。一年後に鬼太郎と目玉親父が来て、ようやく水木を人間世界へ連れ戻してくれた。

★3.切符が、チョッキのポケットから上着のポケットへ移動する。

『Xの悲劇』(クイーン)  ドゥイットが回数券綴りを買って、チョッキのポケットに入れるのを、ドルリー・レーンは見た。ドゥイットは列車内で射殺され、死体を調べると、回数券綴りは、上着の内ポケットの中にあった。そこからレーンは、犯人が車掌の検札をよそおってドゥイットを殺したことを察知する。ドゥイットは、検札に応じようと回数券綴りを取り出したところを撃たれたのであり、犯人はその後、回数券綴りを、ドゥイットが入れたのとは別のポケットに戻してしまったのだ→〔最期の言葉〕3

★4.大きな石塊の下の切符。

『一枚の切符』(江戸川乱歩)  素人探偵左右田五郎は、鉄道線路わきの石塊の下に一枚の切符を見つけた。それは、夜汽車の窓から捨てられた切符である。石塊はもともとそこにあったのではなく、夜汽車の通過後に、誰かが運んで来たものであった。夜なので切符に気づかず、その上に石塊を置いたのだ。これは、殺人の嫌疑をかけられた富田博士の無実を示す発見であった→〔足跡からわかること〕5〔*しかし事件解決後、左右田は友人に言った。「僕は富田博士を崇拝しているんだ。もしも切符が石塊の下でなく、石塊のそばにあったとしたら、どうだ?」〕。

★5.定期券。

『SR(ショート落語)(桂枝雀)  「定期券が落ちている。誰の定期や? 名前書いたれへん。どこからどこまでの定期や? 駅の名前もあれへん。期限切れか? 日にちも書いたれへん。・・・これ、なんで定期やとわかったんやろ?」。

 

※切符の枚数と入場者数が食い違う→〔人数が合わない〕3の『切符』(三島由紀夫)。

 

 

【きのこ】

★1.笑い茸(たけ)。

『今昔物語集』巻28−28  尼たちが、仏に供える花を摘もうと山へ入って、道に迷う。空腹になったので、茸(たけ。きのこ)を見つけて焼いて食べたら美味だった。まもなく尼たちは、笑いがとまらなくなって踊り出す。木こりたちがやって来て、同様に茸を食べ、笑い踊る。しばらくすると、酔いが醒めたように正気に戻り、尼たちも木こりたちも山を降りて行った。

*仏頂面の男に笑い茸を与える→〔笑いの力〕2の『笑い茸』(落語)。

『いじわるばあさん』(長谷川町子)朝日文庫版第1巻64ページ  息子が午後から葬式に出かけるというので、いじわるばあさんが昼食を作ってやる。息子は葬儀の最中に笑い出し、まわりの参列者が非難の目で息子を見る。家ではいじわるばあさんが、「笑い茸がきくころだろう」とつぶやいていた。

★2.毒きのこ。

『遠野物語』(柳田国男)18〜19  村の旧家・山口孫左衛門の家で、梨の木のまわりに、見馴れぬ茸(きのこ)がたくさん生えた。下男の一人が「どんな茸でも、水桶に入れて苧殻(おがら)でよくかき廻してから食べれば心配ない」と言うので、皆が茸を食べた。その結果、この家の主従二十幾人が、茸の毒にあたって一日のうちに死んだ。外で遊んでいた七歳の女児だけが助かった。

*きのこ鍋の毒味→〔毒〕6の猫で毒味(日本の現代伝説『ピアスの白い糸』)。  

*悟りをもたらす毒きのこ→〔悟り〕3の『座禅物語』(三島由紀夫)。

★3.毒きのこを食べて死ぬ人と、死なない人。

『今昔物語集』巻28−17  左大臣道長に仕える祈祷僧が、平茸(ひらたけ)を食べて中毒死した。道長は憐れに思い、多くの葬儀料を与えた。これを知った貧僧が、自分も平茸を食べて死のうとする。普通に死んだのでは、死体を大路に棄てられるだろうが、平茸で中毒死すれば、葬儀料を得られると考えたのである。しかしこの僧は毒に強い体質で、平茸を食べても死ななかった。

『今昔物語集』巻28−18  金峯山の別当は八十歳を過ぎても壮健だった。次位の僧が「別当を殺して、自分が新別当になろう」とたくらみ、和太利(わたり)という毒茸を調理して、別当に食べさせる。ところが別当はいっこうに平気で、「これほど美味な和太利は食べたことがない」と言って笑う。別当は長年、和太利を食べ続けてきたが、まったく毒にあたらない体質なのだった。 

★4.言葉を発し、動き回るきのこ。

『くさびら』(狂言)  ある男の家の庭に、季節外れのくさびら(きのこ)がたくさん生え出て気味が悪いので、山伏に加持を頼む。山伏は「これは狗賓(ぐびん。天狗)のしわざだ」と言い、「ボロンボロ ボロンボロ」と呪文を唱えて、くさびら退散の祈祷をする。しかし、くさびらはどんどん増え、「ホイホイホイホイ」と言葉を発して動き回る。山伏は、くさびらたちに追われて逃げて行く。 

★5.きのこ人間。

『マタンゴ』(本多猪四郎)  七人の男女がヨット航海に出て嵐に遭い、太平洋上の無人島に漂着する。仲間割れが起こり、死者や行方不明者が出る。生き残った者たちは飢えに堪えかねて、島に群生するきのこ・マタンゴを食べる。マタンゴは美味で、こころよい幻覚も見える。マタンゴを食べた者は、身体がきのこ状になり、きのこ人間となって動きまわる。一人の男だけがマタンゴを食べずに島を脱出し、救助されて日本へ戻る→〔病院〕1。 

★6.きのこに転生する法師。

『宇治拾遺物語』巻1−2  丹波国篠村(しのむら)に毎年多くの平茸が生え、村人は採って食べていた。ある時、村人の夢に、二〜三十人の法師が現れ、「長年宮仕えをしてきましたが、この村との縁が尽きたので他所へ参ります。名残惜しいことです」と告げた。翌年の秋、平茸は生えなかった。「不浄の身で説法する法師は、平茸に生まれ変わる」と言われるから、毎年の平茸は、法師の転生した姿だったのだろう。

★7.紫色のきのこ。

『日本書紀』巻24皇極天皇3年3月  大和国菟田(うだ)郡の人・押坂直(おしさかのあたひ)が、子供一人を連れて菟田山へ登り、紫色の菌(きのこ)が雪の中から生え出ているのを見る。高さ六寸余で、四町ほどの範囲に生えていた。家へ持ち帰り、煮て食べると、香ばしい味がした。翌日、山へ行くと、菌は一本もなかった。押坂直と子供は菌を食べたおかげで、病気にもかからず長生きした。ある人が、「それは菌ではなく、芝草(仙薬)だったのだろう」と言った。 

『紫の茸(きのこ)(H・G・ウェルズ)  小さな店の主人クームズ氏は、妻から「チビの地虫」と呼ばれ、面白くない毎日を送っていた。ある日クームズ氏は、妻や客たちの無礼・無作法なふるまいを我慢できず、家を出る。松林まで来て紫色の茸を見つけ、「毒でもかまわない」と思って口に入れる。たちまちクームズ氏は気が大きくなり、家へ戻って客を追い出し、妻を怒鳴りつける。それ以来、妻はすっかり従順になり、商売も繁盛するようになった。

★8.蟻の目からは、きのこは家や山のように見える。

『朝に就(つい)ての童話的構図』(宮沢賢治)  霧の朝。二疋の蟻の子供らが、楢の木の下を見てびっくりする。「あんなとこに、まっ白な家ができた」「家じゃない。山だ」「昨日はなかったぞ」「兵隊さんに聞いてみよう」。二疋は蟻の歩哨に知らせ、陸地測量部へ報告に行く。陸地測量部は「あれはきのこというものだ。すぐなくなるから、地図に入れなくていい」と教える。「あんなもの、地図に入れたり消したりしていたら、測量部など百あっても足りない」。 

 

 

【木登り】

★1.木の上で一生を送る。

『木のぼり男爵』(カルヴィーノ)  「わたし」の兄コジモは、十二歳の時、父男爵から叱責されたことがきっかけで、庭の木に登り、それ以来、地面に降りることなく、ずっと木々の上で暮らした。周辺は森林地帯であり、渓流の上の二叉(ふたまた)の枝に座れば、排泄も快適だった。コジモは枝から枝を伝わって方々へ出かけ、有名人となり、ナポレオンが彼に会いに来たこともあった。月日が流れ、六十五歳になったコジモは、重病で死に瀕していたが、飛んで来た気球の綱につかまって、海の方へ去って行った。 

★2.木登り名人。

『徒然草』第109段  「高名の木のぼり」と言われた男が、人を指図して、高い木の梢を切らせた。危険な作業をしている間は何も言わず、家の軒ほどまで降りて来た時に、「気をつけて降りよ」と声をかけた。高い木の上にいる間は、誰でも気をつける。もう安全だという所まで来た時に、あやまちはおかすものなのだ。 

★3a.木に登って見下ろすと、男女の性交の幻が見える。

『鸚鵡七十話』第37話  夫が妻の不貞を疑い、樹に登って監視する。その下へ、妻が情夫と来て交わるので、夫は怒って樹から降りて来る。妻は気づいて、情夫を去らせる。夫「お前と一緒にいた男は誰だ?」。妻「それがこの樹の特徴です。この樹に登って下を見ると、一人でいても二人に見えるのです」。妻は、夫一人を地上に残して樹に登り、夫を見下ろして言う。「貴方だって、よその女と色事をしているじゃありませんか」。

『デカメロン』第7日第9話  老貴族と奥方が梨の木の下に坐っていた時、召使の青年が木に登り、「旦那様と奥様、なぜそんなみだらなことをなさるのですか?」と咎める。木から見下ろすと、二人の性交が見えるのだという。老貴族は、梨の木の不思議な作用を自分の目で確かめようと、召使と交代して木に登る。召使と奥方は、さっそく横になって性交を始める。老貴族は木の上からそれを見て驚くが、「なるほど。こういう幻が見えるのか」と納得する。

★3b.見上げると、木の上の性交が見える。

『カンタベリー物語』「貿易商人の話」  老騎士が失明したので、彼の若妻は「少し離れた場所なら、夫にはわかるまい」と考え、庭の梨の木に登って情夫と交わる。その時、神の加護によって老騎士の眼が開き、彼は若妻と情夫の性交を見て怒る。若妻は「誰でも、眼をさましてすぐの時は日の光に慣れず、はっきり見えないものです。それと同様に、貴方は長い間盲目だったので、眼が開いても、はじめのうちは見間違いをするのです」と言いくるめ、老騎士は怒ったことを詫びる。

*木登りする女の陰部を、下から見る→〔死の起源〕4の『南島の神話』(後藤明)第3章「死の起源と死後の世界」。  

★3c.木に登って、偶然、隣家の性交を見る。

『武道伝来記』巻4−3「無分別は見越の木登」  肥後の国の武士・安森戸左衛門が非番の日に、奥の間を開け放して、昼間から夫婦の交わりをする。隣の大壁源五左衛門家の中間(ちゅうげん)が、庭木に登って作業をしていてこれに目をとめ、「心地よくあそばさるるよ」と、眺めていた。安森戸左衛門は見られていることに気づき、鉄砲を取り出して、中間を射殺した〔*これがもとで両家の争いとなり、安森が大壁を斬り殺して行方をくらます。大壁の子・小八郎が成長後、仇討ちの旅に出て安森を討つ〕。

*屋根の上で働く職人が、ホテルの情事を見る→〔屋根〕2aの『屋根を歩む』(三島由紀夫)。  

★4.木につかまる人との問答。

『しまつの極意』(落語)  ケチで有名な男に、ある人が倹約の極意伝授を請う。ケチな男はその人を庭の松の木に登らせ、まず「左手を放せ」と命ずる。ついで、右手の小指、薬指、中指を順々に放させる。懸命にぶらさがる人がたまりかねて、「これ以上は放せない」と言うと、ケチな男は親指と人差し指で丸を作り、「放すなよ。これを放さぬのが、しまつの極意だ」と教える。

『無門関』(慧開)5「香厳上樹」  人が木に登り、口で枝をくわえて、両手両脚を放す。その時、木の下に人が来て「祖師西来意(禅の根本義)」を問う。答えねば禅者として失格である。答えれば木から落ちて死んでしまう。

★5.登った木から手を放せば、仙人になれる。

『仙人』(芥川龍之介)  田舎者権助が仙人になろうとして、医者の家で二十年間ただ働きをする。医者の女房が「仙術を伝授しよう」と言って権助を高い松に登らせ、「両手を放せ」と命ずる。放せば落ちて死ぬし、放さなければもう二十年働かせようと、女房はたくらんでいた。権助が両手を放すと身体が宙に浮き、権助は「仙人になれました」と礼を述べ、雲の中へ昇って行った。

★6.木に登る人と猪。

『古事記』中巻  香坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)兄弟が、神功皇后を討とうとして、事の成否を占ううけひ狩りをする。香坂王が櫟(くぬぎ)の木に登っていると、猪が現れ、櫟を掘って倒し、香坂王を喰い殺した。これは凶兆だったが、忍熊王は畏れず軍を進めた〔*『日本書紀』巻9神功皇后摂政元年2月の類話では、木ではなく桟敷の上で、猪に喰い殺される〕。

『古事記』下巻  ある時、雄略天皇が葛城山に登った。大きな猪が出て来たので、天皇は鳴鏑(なりかぶら)の矢で射る。猪は怒り、うなり声を上げて襲いかかった。天皇は恐れ、逃げて榛(はりのき)に登った。天皇は、「・・・・・・ 病猪(やみしし=手負い猪)の うたき(うなり声)畏み わが逃げ登りし ありを(丘)の榛の枝」と歌った。

★7a.木に登る人の姿が水に映ったので、「木の上にいるのだ」と知る。

『天道さん金ん綱』(日本の昔話)  山姥に追われた子供たちが、木の上に登る。山姥はあとを追って方々を捜し、井戸をのぞくと、水に子供たちが映っていた。山姥は子供たちが木の上にいると知り、登って来る→〔デウス・エクス・マキナ〕1

★7b.木に登る人の姿が水に映ったので、「水の中にいるのだ」と思う。

業平塚の伝説  美貌の在原業平が「女たちから逃れよう」と京を脱出し、尾張国までやって来る。業平は、野井戸の傍らの椎の大木に登って、茂みから下をうかがう。彼の顔が井戸に映ったのを、追ってきた女たちが見て、「業平さまはあそこだ」と叫び、われもわれもと井戸に飛び込んだ。業平は女たちの死を哀れみ、ここを住まいの地として、女たちを供養した。その住まいの跡が業平塚である(愛知県東海市)。

*井戸に映る月を取ろうとして、十人が井戸に落ちる→〔月〕2bの『井戸の中の月』(イギリスの昔話)。  

一夜の松の伝説  妻帯している男が、茶店の女から恋慕されて逃げる。男は菅田神社の後ろの松の木に登り、松の木は一夜にして大木となって、男を隠した。木の下の水に男の姿が映り、それを見た女は、男が身投げしたものと思い、自分も身を投げて死んだ。男を隠した松の木は、「一夜の松」と呼ばれている(奈良県大和郡山市八条町)。

 

 

【器物霊】

★1.古い器物や金銀などが、動き出したり物を言ったりする。人間の形をとることもある。

『狗張子』(釈了意)巻6−1「塩田平九郎、怪異を見ること」  摂州荒木家の侍塩田平九郎が出家し、諸方を旅する。ある時、草原のあばら家で夜を明かすと、三人の男が来て、世相を論じ詩を詠ずるが、平九郎の念仏の声とともに彼らは消えた。翌朝あばら家の内を捜すと、古いうちわ・笛・箒があった。

『捜神記』巻18−2(通巻414話)  ある家に住む富豪が突然没落し、次にその家に住んだ人は家族が皆病気になった。阿文という男が家を買い、夜中に見張っていると、黄・白・青の着物を着た男たちが来て、「細腰」と呼ばれる者と話し合った。黄・白・青の男は屋敷内に埋まっている金・銀・銭で、「細腰」は竈の下の杵だった。阿文は金・銀・銭を掘り出し、杵を焼き捨てた。

★2.杓(しゃく)の変化(へんげ)。

『酉陽雑俎』続集巻1−878  元和(806〜820)の頃。周乙という学生が、夜、勉強していると、小さな鬼が現れた。髪は乱れ、頭の長さは二尺あまり、頭いっぱいに、星のように光が砕けて散らばっていた。燈にふざけ硯をいじくる鬼を、周乙はつかまえたが、夜明け方になってよく見たら、古びた木の杓だった。その上に、粟が百余粒へばりついていた。

★3.甕(かめ)の変化(へんげ)。

『閲微草堂筆記』「槐西雑志」185「割れ甕の怪」  ある家に化け物が出る。身体つきは人間と変わらないが、目と眉の間が二寸ほどもあって、口と鼻の間がたった一分(ぶ)という、奇妙な顔をしている。劉という男が鉄砲でねらい撃ちすると、それは割れ甕だった。子供たちが甕に、人の顔をいたずら書きしたのである〔*顔を書いたために、甕に魂が宿ったのかもしれない→〔枕〕7の『太平広記』巻368所引『集異記』〕。

*壺の変化(へんげ)→〔壺〕4の『壺むすこ』(インドの昔話)。

★4.傘の変化(へんげ)。

『西鶴諸国ばなし』(井原西鶴)巻1−4「傘(からかさ)の御託宣」  村人が傘を神様だと思って祀ると、その傘に魂が宿り、「美しい娘を巫女として差し出せ」と託宣した。村娘たちは、傘の形から巨大な男根を連想して恐れたので、好色な後家が身代わりを買って出る。しかし傘と一晩過ごしても何事も起こらず、後家は立腹して傘を破り捨てた。

『福田八郎』(落語)  落ち武者の福田八郎が、あばら家の姫君の寝所へ忍び入るが、姫君に投げ飛ばされてしまった。気づくと家も姫君も消え、草深い山中である。傍らには、破(や)れ傘が一本落ちていた〔*原話の江戸小咄では、娘が「私は縁の下にいる、三千年を経た破れ傘です」と正体を明かし、男が「破れ傘では、させないのも当然だ」と納得する。「傘をさせない」と「情交をさせない」の洒落〕。

*古い傘から妖怪が発生する→〔笠(傘)〕4aの『雨ふり小僧』(手塚治虫)。

★5.箒の変化(へんげ)。

『閲微草堂筆記』「如是我聞」97「箒の怪」  花売りの男が某家の門を叩き、「この家の娘に花を売ったので、代金をいただきたい」と請求する。家族は誰も覚えがないが、厠のぼろ箒の柄に、花が何本か差してあった。その箒をへし折って焼き捨てると、かすかに泣き声がして血が流れた。

『幽明録』38「箒の美少年」  欲情過多の婦人がいて、朝晩酒を飲んでまぎらしていた。ある朝、目をさますと、すばらしい美少年が二人、家の裏に立っている。しかし、婦人が抱きしめようとすると、美少年は箒になってしまった。婦人は箒を焼き捨てた。

『酉陽雑俎』続集巻2−907  僧が堂の前へ来た時、何かが檐(のき)の前に落ちて来た。それは生まれたばかりの嬰児で、むつきは真新しかった。僧は嬰児を袖にくるみ、村人に世話を頼もうと、出かける。五〜六里行き、袖の中が軽くなったので、探ってみると一本の古箒だった。

★6.張形(はりかた)の変化(へんげ)。  

『奇談異聞辞典』(柴田宵曲)「天井の一包」  男が、大諸侯の奥に勤めていた女を妻とする。夜、男が目覚めると、妻の傍に誰かが添い寝をしているように見えた。翌晩も同じことがあり、怪しい姿が煙のように天井へ吸い込まれて消えた。男が天井裏を調べたところ、小さな風呂敷包があり、婦人の翫(もてあそ)ぶ、水牛の角で造った張形が入っていた。心をこめて久しく用いた品には、このようなこともあるのだ(『真佐喜のかつら』9)。

★7.器物霊が人にとりつく。  

『子不語』巻15−399  某貴人の娘が、化け物にとりつかれて困っていた。道術を修めた兵士・伊五が、「これは器物の妖怪です」と言って、真夜中に娘の部屋に入り、妖怪と戦って退治する。妖怪の正体は籐の腰掛であり、焼き捨てると夥(おびただ)しい血が流れ出た。

★8.器物霊が、自分の素性を知らない。  

『徳利(とっくり)の化け』(アイヌの昔話)  徳利が川へ落ち、石にぶつかって首がもげ、流されて海底に転がっていた。海の神が憐れみ、徳利を、首の短い男の姿にして陸へ上げてやる。その男(徳利)は、自分が何ものであるかわからず、諸方をさすらう。男は、ある村の村長に突きとばされ、転がって、首のもげた徳利に戻った。男は村長の夢枕に立ち、「あなたのおかげで私は、自分が徳利であったことを知りました」と礼を述べた。 

 

※釜が淵の主(ぬし)になる→〔釜〕6の『東海道名所記』巻2「三嶋より沼津へ一里半」。

※袋に生命が宿って、人間の形をとることもある→〔袋〕7の『太平広記』巻386所引『玄怪録』。

※『文福茶釜』(日本の昔話)は、狸が茶釜に化けたものとはいうが、茶釜に動物の魂が宿った器物霊のような印象もある→〔狸〕5a

※『武道伝来記』(井原西鶴)巻5−4「火燵もありく四足の庭」の、庭を走る炬燵も、器物霊と思われたのであろう→〔見間違い〕2

 

 

【偽名】

 *関連項目→〔名前〕

★1.名前を偽る。

『トリスタンとイゾルデ』(シュトラースブルク)第11・14章  トリスタンはモーロルトとの闘いで傷を負った。モーロルトの妹・王妃イゾルデだけが、その傷を治すことができる。トリスタンは「楽人タントリス」と名乗り、王妃イゾルデとその同名の娘イゾルデ姫のもとに滞在し、傷をなおしてもらう。しかしイゾルデ姫は、タントリス=トリスタンで、伯父モーロルトの仇であることに気づく。

『日本書紀』巻28天武天皇元年6月  大伴吹負は大友皇子の臣だったが、戦況の不利を悟り、「天武天皇方に寝返ろう」と考えた。吹負は偽って「天武の子・高市皇子」と名のり、数十騎を率いて自軍を混乱させ、多くの兵を服従させた。天武天皇は喜び、吹負を将軍に任命した。

*偽名を用いたゆえの悲劇→〔金が人手を巡る〕1の『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』(鶴屋南北)

*偽名を用いたが、無効だった→〔瓢箪〕5の『西遊記』百回本第34〜35回。

*正体を隠していたが、本名を呼ばれて返事をしてしまう→〔返答〕6の『大岡政談』「直助権兵衛一件」など。

★2.有名作家の名前を借りる。

『断崖の錯覚』(太宰治)  作家志望の青年である「私」は温泉地へ遊びに出かけ、宿帳に、某新進作家の名前を記入する。「私」は喫茶店で働く少女・雪を恋し、関係を結ぶ。旅館の裏山に二人で登った時、雪は、某新進作家の名前で「私」を呼んだ。雪が愛している男は「私」ではなく、某新進作家だったのだ。「私」は、雪を断崖から突き落として殺した。

『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)5編下「津」  弥次郎兵衛・喜多八が下手な狂歌を詠みながら歩いていると、土地の男が感心して「お江戸の方ですか?」と声をかける。弥次郎兵衛は「私は十返舎一九で、『膝栗毛』著述の必要から出かけて来ました」、喜多八は「私は弟子の一片舎南鐐」と、それぞれでたらめを言う。二人は男の家で歓待されるが、「本物の十返舎一九が当地を来訪中で、まもなくこの家に来る」との知らせに、慌てて逃げ出す。

★3.わざと本名ではない別の名前で呼びかける。

『水滸伝』(百二十回本)第3〜4回  「殺人犯・魯達を逮捕すべし」との高札が辻に立ち、大勢が集まってそれを読む。そこへ来合わせた魯達は、字が読めないので、皆が読むのを聞いていると、老人が「張さん、どうしてここへ」と呼びかけ、人気(ひとけ)のない所へ魯達を引っ張って行く。老人は、かつて魯達に救われたことがあり、その恩返しに、魯達の正体が知られぬように、はからったのだった。

『水滸伝』(百二十回本)第43回  「宋江・戴宗・李逵を捕らえよ」との高札のまわりに、大勢が集まる。通りかかった李逵もその中にまじって、人が高札の文面を読むのを聞く。梁山泊の仲間の朱貴が駆け寄り、「張兄貴、何をしてるんだね」と叫んで、李逵を居酒屋へ連れて行く。朱貴は「捕り手につまかったらどうするんだ」と言って、気をつけるよう李逵に説く。

 

※「偽名」対「偽名」→〔二者同想〕5の『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「虹谷ユメ子さん」。

 

 

【肝だめし】

★1.男たちが集まり、魔物がいるかもしれぬ場所まで一人で行けるか、肝だめしをする。 

『大鏡』「道長伝」  五月雨の夜の清涼殿。殿上人たちが花山天皇と、昔の恐ろしかったことなどの話をする。花山天皇は「この闇夜に、遠く離れた所へ一人で行けるか?」と問い、藤原氏の三兄弟に「道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿殿の塗籠へ、道長は大極殿へ行け」と命ずる。道隆と道兼は怖がって途中で戻って来るが、道長だけは大極殿まで行き、証拠に柱の下部を少し削り取って、帰って来た。

『今昔物語集』巻27−43  源頼光が美濃守だった時のこと。九月下旬の夜、頼光に仕える侍たちが集まって、恐ろしい産女(うぶめ)の話をする。平季武が、「産女のいる川を、今から渡って見せよう。川の対岸に矢を突き立てて、確かにそこへ行った証拠としよう」と言い出す。仲間の侍たちは、「いかなる勇者でも、産女のいる川は渡れまい」と言って、鎧・甲・鞍・太刀などを賭ける→〔赤ん坊〕4

『春雨物語』(上田秋成)「樊噌(はんかい)」上  大山の麓の里に住む無頼の若者たちが、ある雨の日、仕事から解放されて無駄話に興ずるうち、日頃腕自慢の大蔵を憎み、「恐ろしい神が住む大山に夜登って、証拠の品を置いて来れるか?」と挑む。大蔵はすぐに蓑笠を着けて雨の中を出て行く→〔山と神〕3

『聊斎志異』巻2−47「陸判」  朱爾旦は、頭は鈍いが豪胆な人だった。酒の席で、ある人が朱爾旦に向かって「真夜中に十王殿(冥土の十王を祀った廟)まで行き、判官(閻魔庁の書記)の木像を背負って来ることができたら、ご馳走しよう」と言う。朱爾旦は笑って立ち上がり、まもなく判官の木像を背負って帰って来たので、その場にいた人は皆驚いた→〔像〕8a

*羅生門に鬼神がいるかどうか、確かめに行く→〔門〕4の『羅生門』(能)。

★2.仲間が先回りして、肝だめしの場所に来た男を脅す。

『古今著聞集』巻16「興言利口」第25・通巻516話  雨風の激しい夜、中納言実綱卿の家で侍たちが雑談をするうちに、一人が肝だめしに東三条の池まで行くことになる。傍輩二〜三人が池へ先回りし、円座(わらざ)や棒を投げて侍を脅す。侍はこけつまろびつ逃げ帰り、「唐傘のような物が落ちてきたので、命が大事と思って逃げて来た」と言った。

『今昔物語集』巻27−44  夏の鈴鹿山を越える三人の男が、夜、古堂に雨宿りして物語するうちに、「昼間に山中で見た死体を、取って来ることができるか?」という話になる。一人が着物を脱ぎ、裸で雨の中を駆け出て行く。もう一人が先回りし、死体になりすまして横たわり、背負う男の肩に噛みつく。噛まれた男は恐れることもなく、そのまま死体を背負って古堂まで戻る。

★3.子供や女たちの間で、肝だめしが行なわれることもある。

『夜光人間』(江戸川乱歩)「きもだめしの会」〜「夜光怪人」  小林芳雄たち少年探偵団員七人が、ある夜、近くの森で「きもだめしの会」を行なう。すると、目と口が赤く光り、全身が銀色に輝く怪人が現れて、少年たちを脅かし、やがて空へ消えていった〔*夜光人間は東京のあちらこちらに出没し、人々をおびえさせ、貴重な美術品などを盗んだ。その正体は四十面相で(*→〔顔〕9)、身体に夜光塗料を塗り、豆電球を眼鏡につけ、口にも含んでいたのだ〕。

『幽霊滝の伝説』(小泉八雲『骨董』)  冬の夜、麻取り場で働く女たちが、怪談に興ずる。皆だんだん薄気味悪くなって来た時、一人の娘が「今夜、幽霊滝へ一人で行けたら、私の取った麻を全部あげよう」と提案する。他の女たちも面白がり、「私もあげよう」と言う。お勝という女房が立ち上がり、二歳の息子を背負って出かける→〔声〕3

★4.肝だめしに出かけた男が、何でもないことにおびえて死んでしまう。

肝だめし(ブレードニヒ『ヨーロッパの現代伝説 悪魔のほくろ』)  夜中に一人で墓地に入り、仇敵の墓や殺人鬼の墓まで行く、という肝だめしがあった。仇敵の墓の縁に十二時の時計が打つまで腰かけていた男は、立ち上がる時、着ていたコートを鉄柵に引っかけた。男は「死人につかまれた」と思い、心臓発作を起こして死んだ。また、殺人鬼の墓まで行った証拠として、そこへ熊手を突き立てた少年は、着ていたジャケットも一緒に地面に釘付けにした。少年は「死者に引き止められた」と思い、恐怖で死んだ。

★5.三階の窓に腰掛けて酒が飲めるか、賭けをする。

『戦争と平和』(トルストイ)第1部第1篇  白夜のペテルブルグ。クラーギン邸に青年たちが集まり、酒を飲んで騒ぐ。ドーロホフが三階の窓に、足を外側へたらして腰掛けたまま、ラム酒を一壜飲み干せるかどうか、賭けが始まる。彼はバランスをくずしかけるが、体勢をたてなおして見事に酒を飲みきる。ピエールが興奮して「僕もやるぞ」と叫び、窓へ飛び上がる。皆が「君は梯子段の上でも眩暈がするじゃないか」と言ってとめる。 

 

 

【吸血鬼】

★1.男の吸血鬼。

『吸血鬼ドラキュラ』(ストーカー)  吸血鬼ドラキュラ伯爵は、昼間は棺のごとき木箱の中に寝て、夜だけ活動する。彼は人々を襲って血を吸い、嬰児をさらうこともある。吹雪の日、雇われたジプシーたちが、ドラキュラを入れた木箱を荷馬車で運ぶ。雪が止み、夕日が沈む直前に、ジョナサン・ハーカーたちが待ち伏せし、木箱を開けて、刀や匕首でドラキュラを刺す。ドラキュラの身体は、たちまち粉々の塵と化す。 

『吸血鬼ノスフェラトゥ』(ムルナウ)  ノスフェラトゥ(不死者)である吸血鬼が、ペストとともにブレーメンの町へやって来る。多くの市民がペストに罹患して、死の床に臥す。一人の女性が、自分の血を惜しみなく吸血鬼に与えて町を救おう、と決意する。夜、吸血鬼は彼女の血を吸い、夢中になって吸い続けているうちに、鶏が夜明けを告げる。朝日の光を浴び、吸血鬼は灰となって散り失せる。市民たちはペストから回復する。 

『髑髏検校』(横溝正史)  文化年間(1804〜18)。「不知火検校」と名乗る怪人(髑髏検校)が、松虫・鈴虫という二人の美女を引き連れて、江戸の町に現れた。彼らは吸血鬼であり、夜ごと市中に出て人々の生き血を吸う。しかし昼間は活動できず、三つの柩の中に横たわっている。鳥居蘭渓や秋月数馬たちが、吸血鬼の眠る古寺へ踏み込み、三つの柩に花葫(はなにんにく)を詰めて火をつけ、彼らを焼き滅ぼす。不知火検校は、天草四郎の妄執の化身であり、徳川の天下をくつがえそうと、たくらんでいたのだった。

★2.女の吸血鬼。

『吸血鬼カーミラ』(レ・ファニュ)  カルンスタイン伯爵夫人「マーカラ」は百五十年前に葬られたが、彼女は吸血鬼であり、棺の中の死体は腐敗せず、七インチも溜まった血の中に浸っている。「マーカラ」は、「ミラーカ」という名の美女や、「カーミラ」という名の美女となって地上に現れ、人の血を吸う。官命を受けた調査会が「マーカラ」の墓を開き、胸に杭を打ち込む。首と胴体を切り離して焼き払い、灰は川へ流し捨てた。

『クラリモンド』(ゴーチェ)  聖職者である「わたし」が、夢とも現(うつつ)とも知れぬ状態で同棲する美女クラリモンドは、吸血鬼だった。「わたし」がナイフで果物をむいて指を傷つけた時、クラリモンドは嬉しそうに「わたし」の指の血を吸った。眠る「わたし」の腕をピンで刺して、滲(し)み出る血を吸うこともあった。僧院長セラピオン師が「わたし」を連れて墓地へ行き、クラリモンドの棺を開いて聖水をかける。彼女の身体は土と灰に化した。

*「女吸血鬼だ」と誤解された人→〔見間違い〕3の『サセックスの吸血鬼』(ドイル)。 

★3a.吸血鬼たちが、ただ一人残った人間を殺す。 

『アイ・アム・レジェンド』(マシスン)  謎の細菌に感染して、大勢の人々が吸血鬼になった。吸血鬼に血を吸われた人もまた吸血鬼と化し、今や地球上の人類すべてが吸血鬼である。ただ一人、ロバート・ネヴィルだけは免疫があったため、人間であり続けた。ネヴィルは吸血鬼たちと戦い、多くの吸血鬼を殺した後に、力尽きて死ぬ。吸血鬼の側から見れば、ネヴィルこそ特殊な・異様な存在であり、脅威であった。彼の恐ろしさ・忌まわしさは、伝説として吸血鬼社会に語り継がれるだろう。

★3b.吸血鬼たちが、ただ一人残った人間をそのまま生かしておく。

『抑制心』(星新一『ちぐはぐな部品』)  世界中の全員が、すべて吸血鬼になってしまった。人間は「あなた」一人だけだ。「あなた」の逃げ場はどこにもない。しかし「あなた」の安全は保証されている。皆、「あなた」の血を吸いたいが、それは、一つだけ残ったお菓子を食べてしまうようなもの。だから皆遠慮して、誰も「あなた」に手をつけないのだ。

*「私」以外すべて狐→〔狐〕13の『かめれおん日記』(中島敦)。

★3c.人類が一人残らず吸血鬼になってしまえば、問題はない。

『流血鬼』(藤子・F・不二雄)  世界中の人間が吸血鬼にされてしまい、日本の少年一人だけが、人間として残っていた。吸血鬼特有の赤い目・青白い肌になったガールフレンドが、少年に説く。「私たちに血を吸われた人間は、新人類として生まれ変わるのよ。新人類は、あらゆる点で旧人類よりすぐれているわ」。少年はガールフレンドに血を吸われて新人類の一員となり、新しい世界の素晴らしさを喜ぶ。

★3d.逆に、人類が吸血鬼を殺しつくし、男女二人の吸血鬼だけが生き残る。

『血』(ブラウン)  人類による徹底的な吸血鬼狩りが行なわれ、かろうじて生き残った男女二人の吸血鬼が、自分たちの安全と生き血を求めて、タイムマシンで遠い未来へ行く。未来社会には見知らぬ生き物がいて、このように自己紹介した。「現在では、生きとし生けるものすべてが植物だ。ぼくは、蕪が進化したものである」〔*蕪だらけの環境では、吸血鬼は生きられない。「蕪から血を採る」には、「不可能なこと」の意味がある〕。

*星新一は『短篇をどう書くか』で、『血』(ブラウン)は、「タイムマシン」「吸血鬼」「植物人間」という三つの知識を組み合わせて創った作品だ、と解説する。

★4.美女の血をしぼって飲む。 

『酒呑童子』(御伽草子)  大江山の酒呑童子は都の美女たちをさらい、身体の内から血をしぼり取って、これを「酒」と称して飲んだ。また、肉を削ぎ、肴(さかな)と称して食った。源頼光たち六人の武将が山伏に変装して訪れた時にも、しぼりたての血を盃に満たし、切りたての腕と股(もも)を板に載せて勧めた。頼光たちは酒呑童子を油断させるために、血を飲み肉を食べた。

★5.恙(つつが)虫は、人の血を吸って殺す。

『絵本百物語』第38「恙虫」  斉明天皇の御代(655〜661)。石見の国・八上の山奥に「つつが」という虫がいた。夜、「つつが」は人家に侵入し、眠る人の生き血を吸って殺した。天皇の命令で博士某が「つつが」を封じ込め、人々は「つつが」に殺される心配から解放された。以来、無事であることを、「つつがなし」というようになった。 

★6.「のぶすま」は、人を包んで血を吸う。

「のぶすま」(松谷みよ子『日本の伝説』)  卯月の頃、二人の侍が大茶臼の頂上に登った。誰かの忘れ物らしい渋紙があったので、二人はそこへ腰をおろして一休みし、やがて寝入ってしまう。すると渋紙がめくれ上がり、二人を包み込んで、強く締めつけてくる。一人の侍がようやく脇差しを抜いて渋紙を突き刺すと、渋紙はギャッと叫んで二人を振るい落とし、北の方へ飛び去った。これは、こうもりが千年たって化けた「のぶすま」という物で、人を包んで血を吸うのである(広島県)。 

 

※人の生き血を吸う王様が、蚊になった→〔蚊〕2の文武王の伝説。

 

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