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【糸と生死】

★1.瀕死の肉体と、魂(あるいは幽体)をつなぐ糸。

『現代民話考』(松谷みよ子)5「死の知らせほか」第1章の1  昭和四十四年(1969)頃のこと。「私」は危篤状態になり、病院のベッドに寝かされていた。「私」は空中にふわりと浮かび、「私」の肉体を見下ろした。肉体の額の真ん中あたりから細い糸が出ており、「私」はその糸とつながっていた。もし誰かが糸を切ったら、「私」はおしまいになっていただろう(神奈川県)。

『チューリップの鉢』(オブライエン)  ヴァン・クーレン氏は妻の不貞を疑い、生まれた息子を自分の子と認めなかった。妻は嘆いて死に、多年の後にクーレン氏も老いて死の床についた。肉体と魂をつなぐ紐が細って最後の一条(ひとすじ)の糸となった時、亡妻の霊はクーレン氏の心と同調することができ、「息子は確かに貴方の胤です」と告げた。自らの誤りを悟ったクーレン氏は、息子はすでに死去していたので、「孫娘アリスに遺産を与えよう」と思った→〔霊界通信〕7

★2.肉体と、幽体・複体をつなぐ二本の太い紐。

『小桜姫物語』(浅野和三郎)13  臨終時には肉体から、それと同じ形態の霊魂(たましい=幽体)が抜け出て、肉体の真上の空中に横臥する。白っぽい、幾分ふわふわしたもので、普通は裸である。肉体と幽体の間には紐がついており、一ばん太いのは、腹と腹をつなぐ白い紐で、小指くらいの太さだ。それより細い紐が、頭の方にもう一本見える。紐で繋がれているのは、まだ絶息し切らない時で、最後の紐が切れた時が、本当にその人の死んだ時である〔*小桜姫の霊が、浅野和三郎の妻の口を借りて語った〕。

『不滅への道』(カミンズ)第12章  肉体と複体は、多くの細い糸と、二本の太い魂の緒で結ばれている。魂の緒の一本は太陽神経叢と結ばれ、一本は脳と結ばれている。これらは伸縮性にとみ、睡眠中や半睡状態では、長くのびることができる。人がゆっくり死んでいく時、糸と緒は徐々に切れていく。肉体と複体の主要な連絡線である二本の魂の緒が切断されると、死が訪れる〔*マイヤーズの霊からの通信を、カミンズが自動書記した〕。

*どこまでも長く伸びる銀の紐→〔体外離脱〕4の『アウト・オン・ア・リム』(マクレーン)24。 

★3.命(魂)を肉体につなぐ紐を、捜し求める。

『ブッダ』(手塚治虫)第3部第9章「スジャータ」  少女スジャータがコブラに噛まれ、死に瀕していた。シッダルタは、「どうやったら、このあわれな少女の命をつなぎとめることができるのだ。命をつかみとって、肉体につなぐ紐はないのか」と自問する。彼は自らの心をスジャータの肉体に入れ、肉体から去ろうとする彼女の魂を追いかける→〔生命〕1

 

 

【糸と男女】

★1.糸は、男女を結びつける働きをする。

『紅楼夢』第57回  薛未亡人は、「千里の姻縁(えにし)も一すじの糸で結ばれる」の喩えを、宝釵と黛玉に語り聞かせた。「月下老人が、縁を結ぶべき二人の足と足を、赤い糸でゆわえておかれるのです。すると、あなたと先方の家とが海を隔て国を隔てていようと、家代々の仇(かたき)の間柄であろうと、いつかは夫婦になるのです。逆に、両親も当人も願い、決まったも同然の縁組だと思っていても、月下老人が赤い糸でゆわえて下さらぬことには、添い遂げることはできません。あなたたち二人の縁談も、目と鼻の先にあるものやら、海山の彼方の遠くにあるものやら、見当もつかないのですよ」。

*赤い糸ではなく、赤い縄で男女の足を結ぶ→〔老翁〕1の『続玄怪録』3「定婚店」。

*赤い糸でつながれている貝と蟹→〔貝〕5の『聊斎志異』巻9−384「蛤(こう)」。  

*里見義成の八人の姫君を、八犬士たちにめあわせる→〔くじ〕1の『南総里見八犬伝』第9輯巻之51第180回下。

★2.女の足指に結びつけた長い細紐を、男が引く。

『デカメロン』(ボッカチオ)第7日第8話  ベッドの中の人妻が、足の親指に長い細紐の一端を結び、他端を寝室の窓の外に垂らして、地面に届くようにしておく。愛人がやって来てその細紐を引くのが密会の合図で、人妻は、夫が眠ったか否かを、細紐の動きで愛人に伝える。ところがある夜、夫は細紐を見つけ、愛人の存在を知ってしまう→〔髪を切る・剃る〕2

★3.謎の夫の着物に長い糸をつけ、それをたどって正体を知る。

『古事記』中巻  美しい男がイクタマヨリビメのもとを訪れ、彼女は身ごもる。父母の教えにしたがって、彼女は麻糸を通した針を、男の衣の裾に刺す。翌朝見ると、糸は戸の鍵穴を抜けて外へ出ていた。糸は三輪山の神の社までのびており、男が大物主神(*蛇体の神である→〔箱を開ける女〕1の『日本書紀』巻5崇神天皇10年9月)の化身であることがわかった。

*糸をたどり、男の正体が蛇であることを知る→〔蛇婿〕1aの『肥前国風土記』松浦の郡褶振の峰など。

『三国遺事』巻2「紀異」 第2・後百済 甄萱(キョンフォン)  娘のもとに、紫色の衣を着た男が夜ごとに来て共寝する。娘は長い糸を通した針を男の衣に刺す。翌朝糸をたどると、塀の下の大蚯蚓(みみず)の横腹に針が刺さっていた。娘は男の子を産む。その子は十五歳になると自分を「甄萱」と呼び、後に国王になった。

『袋草紙』「雑談」  赤染衛門の姉妹である女のもとへ、恋人藤原道隆をよそおった怪しい男が訪れる。女が、男の直衣に糸を通した針をつけておくと、翌朝、糸は南庭の木の上にかかっていた。これは庭木の精のしわざであった(*『今物語』第26話には、同話が、藤原教通に化けた桜木の精と小式部内侍とのこととして載る)。

*糸をたどり、男の正体が河童であることを知る→〔河童〕1の『現代民話考』(松谷みよ子)1「河童・天狗・神かくし」第1章の2。 

★4.無関係な像に糸を結びつけ、「像に犯された」といつわる。

『閲微草堂筆記』「ラン陽消夏録」26「神罰」  娘が妊娠し、「毎夜、黒い顔の巨人が来て身体の上に乗る」と、母親に嘘を言う。母親は「今度巨人が来たら、色つきの糸を足に結びつけよ」と教える。娘の恋人が、その糸を関帝廟の周将軍(関羽の部下周倉)の像の足に結ぶ。母親は糸を捜し歩いてこれを見つけ、像の足を叩いて罰する。後、娘と恋人は密会中に周将軍に腰を叩かれ、足腰立たぬ身体になった。

★5.夫が糸をたどって、妻と再会する。

『蛙の王女』(ロシアの昔話)  イワン王子が、地の果ての国へ去った妻ワシリーサを捜して、旅に出る。途中で出会った老人が糸玉を与え、「これがころがる方へついて行け」と言う。イワン王子は、糸玉を追って歩く。彼は熊、鴨、兎、かますに助けられ、ヤガー婆さんに教えられて、不死身のコシチェイを退治する。イワン王子はコシチェイの家からワシリーサを救い出し、二人はいつまでも幸せに暮らした。

★6.女の袖に赤糸をつけて、男が追う。その男の袖に白糸をつけて、もう一人の女が追う。

『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)4段目「道行恋の苧環」  杉酒屋の娘お三輪が、烏帽子折の求女(実は藤原淡海)を恋慕する。求女の所には、夜ごと春日明神の巫女(実は蘇我入鹿の妹橘姫)が通って来る。去って行く巫女の袖に赤糸をつけて、求女があとを追う。求女の裾に白糸をつけて、お三輪がそのあとを追う。三人は、帝を僭称する蘇我入鹿の三笠山御殿までやって来る。

 

※蜘蛛の糸が、人の身体を引き上げる・引きずりこむ→〔蜘蛛〕1の『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)・『耳袋』巻之7「河怪之事」。

 

 

【井戸】

★1.井戸に毒龍が棲む。 

『鏡の乙女』(小泉八雲『天の川物語その他』)  斉明天皇の御代(655〜661)に百済から渡来した鏡が、保元の頃、京極辺の屋敷の井戸に棄てられた。鏡の精が、井戸の主である毒龍に仕え、美女の姿となって、人々を井戸の中へ誘いこんだ。足利時代に到り、毒龍は井戸を去って、信濃の鳥井の池に移り住んだ。そこで神官松村兵庫が井戸から鏡を引き上げ、将軍義政に献上した。

★2a.井戸から亡霊が出る。 

『番町皿屋敷』(講談)第11〜12席  女中お菊が、主人青山主膳秘蔵の十枚の皿のうち一枚を、誤って割る。青山主膳はお菊を折檻し、死罪を宣告する(*→〔宝〕1)。お菊は「人手にかかるよりは」と、自ら屋敷内の古井戸に身を投げて死ぬ。その後、毎夜お菊の亡霊が井戸から現れて、「一つ、二つ、三つ、・・・・・・」と皿を数え、「九つ、・・・・・・ああ悲しや、一つ足らぬ」と言って泣く〔*この後日譚を語るのが→〔禁忌(聞くな)〕2の『皿屋敷』(落語)〕。

静御前の伝説  静御前は吉野山で源義経と別れた後、西生寺境内の井戸に身を投げた。その後、静御前の亡霊が火の玉となって、井戸から現れるので、蓮如上人が済度した。七日間の法会の満願の夜、静御前の亡霊は「迷いから脱して、成仏できました」と、蓮如上人に夢告した(奈良県吉野郡吉野町菜摘。谷崎潤一郎『吉野葛』その3「初音の鼓」がこの伝説に言及し、蓮如上人が済度するまで、三百年にわたって井戸から火の玉が出た、と記す)。

★2b.テレビに映る井戸から亡霊が現われ、テレビの外へ出て来る。 

『リング』(中田秀夫)  念じるだけで人を殺す超能力を持つ少女・山村貞子は、井戸に突き落とされて死んだ。テレビ画面に、その井戸が映し出される。見ていると、井戸の中から、長い髪で顔を隠した白装束の貞子の亡霊が、這い出て来る。貞子の亡霊はだんだん近づき、ついにテレビ画面から外へ出る。見た人はその場で死ぬ。

★3a.井戸の中の呪宝。 

『青いあかり』(グリム)KHM116  魔女が、青いあかりを空井戸に取り落とす。旅の兵隊が魔女に頼まれてあかりを探すが、魔女はあかりだけ受け取って、兵隊を井戸に落とそうとする。魔女と兵隊は争い、兵隊は青いあかりを持ったまま井戸の底に残される。兵隊が青いあかりでパイプに火をつけると、黒い小人が現れ、兵隊の命ずる仕事をしてくれる〔*兵隊は小人の助けで井戸から出、魔女をしばり、王女と結婚する〕。

『三国志演義』第6〜7回  董卓が洛陽に火を放って、長安に遷都する。呉の孫堅が洛陽に入って消火活動をし、夜、宮廷の南の井戸から五色の光が昇るのを見て水中を探り、「受命於天、既寿永昌」と印した伝国の玉璽を得る。「これは天子の位に登る吉兆」と孫堅は喜ぶが、翌年彼は戦死する。

★3b.井戸の中の大金。 

『長者番付』(落語)  三井家の先祖は越後の浪人で、六十六部となって諸国を廻り、ある時、伊勢の荒れ寺で一夜を過ごした。真夜中に、庭の井戸から火の玉が三つ出て、ふわりふわりと寺内を飛び、明け方にまた井戸の中へ戻った。六十六部が井戸を覗くと空(から)井戸で、底に千両箱が三つ重なっている。彼はこの金を元手に江戸で呉服店を開き、生まれ故郷にちなんで屋号を「越後屋」とした。井戸の中の三千両のおかげだから、三井の紋は、井桁の中に三という字が書いてある。

*「井戸の中に三千両ある」との嘘→〔井戸〕4の『銭形平次捕物控』(野村胡堂)「招く骸骨」。

*井戸の底のこんにゃく→〔幽霊(物につく)〕2の『百物語』(杉浦日向子)其ノ68。

★4.井戸に死体を隠す。

『影男』(江戸川乱歩)「善良なる地主」  死体を隠すためにわざわざ穴を掘るのは、発覚しやすい。綿貫清二(影男)は前もって古井戸つきの空き地を買っておき、井戸に死体を放りこんでから、業者に「土地を転売するので、整地して井戸も埋めてくれ」と頼む。これが、穴を掘らずにすみ、しかも公然と埋めることができる死体隠匿法なのだった。

『銭形平次捕物控』(野村胡堂)「招く骸骨」  両替屋主人の徳五郎を、甥・由兵衛と番頭・与市が共謀して殺し、死体を屋敷内の古井戸に捨てる。由兵衛は徳五郎に代わって両替屋の主人になるが、与市は別件で逮捕され三宅島へ流される。与市は島で重病にかかり、由兵衛だけがいい目を見ているのが癪にさわって、島で知り合った治郎助に「両替屋の古井戸に三千両隠してある」と言う。治郎助は三千両を得ようとして、古井戸から徳五郎の死体を掘り出してしまい、由兵衛の犯罪が発覚する。

*「金目(かねめ)のものだ」と思って盗んだら、死体だった→〔泥棒〕3の おばあちゃんの遺体が消えた(ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』)など。

*実際に井戸の底に三千両あることもある→〔井戸〕3bの『長者番付』(落語)。

★5.井戸の底が異郷に通ずる。

『ホレのおばさん』(グリム)KHM24  継娘が糸巻きを井戸に落として継母から叱られ、「取って来い」と命ぜられる。継娘は井戸に飛び込んで意識を失い、気づくときれいな草原にいた。継娘は草原を歩いてホレのおばさんの家に行き、そこでしばらく奉公して、黄金を身体中につけて帰る。継母の実子が真似て井戸に入るが、怠け者だったので、黒いどろどろのチャンが身体についた。

『酉陽雑俎』巻15−580  百姓が井戸を掘るが、普通より一丈余り深く掘っても水がなかった。思いがけず、下方から人や鶏の声が聞こえ、壁ごしのように近かった。百姓は恐れ、掘るのをやめてしまった。

*井戸をどんどん掘って行ったら、屋根があった→〔屋根〕4の『下の国の屋根』(日本の昔話)。

*井戸をのぞいて、死者の名前を呼ぶ→〔魂呼ばい〕3の『源平布引滝』3段目「九郎助住家の場」。

*異郷へ通ずる穴→〔穴〕1の『鼠の浄土』(日本の昔話)など。

★6.火を吐く井戸。

『異苑』27「火井」  蜀の国に、火を吐く井戸があった。漢帝室の隆盛時には火炎が燃え盛り、漢帝室が衰えると火も弱まった。諸葛孔明が一度その井戸をのぞいたら、また火勢が盛んになった。景耀元年(258)、ある人が蝋燭を投げこむと火は消え、その年、蜀は魏に滅ぼされた〔*蜀が滅んだのは正しくは炎興元年(263)〕。

★7.湯がわく井戸。

産斉水(うぶゆみず)の伝説  大和町和木の王子原、奥の谷の林に薬師堂があり、その横に深さ二尺ほどの小井戸がある。昔、この井戸には湯がわき出ており、赤ん坊の産湯に使っていた。ある時、一人の老婆がむつきを井戸へ投げ込み、それきり湯は出なくなった(広島県加茂郡大和町)。

★8.井戸の水が、上まで上がって来る。

『イスラーム神秘主義聖者列伝』「ハサン・バスリー」  メッカへ巡礼に向かう人々が砂漠で渇し、ある井戸へ辿り着いた。手桶も綱もなかった。聖者ハサンが礼拝を始めると、井戸の水が上がって来て、巡礼者たちは水を飲むことができた。一人が皮袋で水を汲もうとしたところ、水は井戸の中に沈んでしまう。ハサンは「あなた方は神を信じていなかったから、水は井戸の底へ沈んだ」と言った。

 

 

【井戸と男女】

★1a.井戸のほとりで男女が巡り会う。

『毘沙門の本地』(御伽草子)  金色太子は、死後大梵王宮に転生した妻・天大玉姫に逢うべく、金泥(金麗)駒に乗り、肉身のまま、大梵王宮の黄金の筒井まで行く。彼は井のもとの高さ一由旬の赤栴檀の木に登る。姫は水を汲みに来て、水に映る太子を見、二人は再会する→〔冥婚〕4

★1b.井戸のほとりで侍女あるいは老僕が介在して、男女が縁を結ぶ。

『古事記』上巻  ホヲリ(山幸彦)が海神の宮を訪れ、井のほとりの桂の木に登った。水汲みの侍女がホヲリを見つけて、海神の娘トヨタマビメに告げ知らせ、トヨタマビメは外に出てホヲリを見、たいそう気に入った。ホヲリはトヨタマビメの婿になり、海神の宮で三年を過ごした。

『創世記』第24章  アブラハムが老僕に、「我が故郷ナホルへ行き、我が息子イサクの嫁とすべき娘を捜して来い」と命ずる。老僕はナホルの町はずれの井戸で、夕方、水汲みに来る女たちの中から美女リベカを見出す。老僕はリベカの父と兄から結婚の許諾を得て、彼女をイサクのもとへ連れて行く。

★2.井戸のもとで遊んでいた子供たちが、成長後、夫婦になる。

『伊勢物語』第23段  田舎暮らしの子供たちが、井戸の所で遊んでいた。幼なじみの男女は互いに思い合い、親の勧める縁談を断った。男は「かつて井筒で測った私の背丈は、今や井筒よりもすっかり高くなった」という歌を贈り、女もそれに返歌して、二人は結婚した。

『井筒』(能)  旅の僧が在原寺を訪れ、里の女が筒井の水を汲んで業平の塚に手向けるのを見る。女は紀有常の娘の霊であり、遠い昔この井戸のもとで、子供時代の彼女と業平は仲良く遊び、語らい合っていたのだった。その夜、旅の僧の夢に、有常の娘の霊が現れ、業平の形見の衣を着て舞った。

★3.『伊勢物語』第23段、『井筒』(能)の明治時代版。井戸端に落とした財布がきっかけで、男女が深い関係になる。

『耽溺』(岩野泡鳴)  「僕(田村義雄)」は妻と子供たちを東京に残し、脚本執筆のため国府津に部屋を借りる。ある日、「僕」が井戸端に落としたがま口を、隣の料理屋「井筒屋」の芸者吉弥(きちや)が拾ってくれる。その夜、「僕」と吉弥は関係を結ぶ。吉弥には大勢の男がおり、「僕」は身受けの金を工面するが、結局、吉弥と別れる。しばらくして浅草に住む吉弥を訪れると、彼女は梅毒性の眼病を患っていた。

 

 

【井戸に落ちる】

★1.井戸に子供が落ちて死ぬ。

『聴耳草紙』(佐々木喜善)163番「長い名前(その2)」  某家で、子供が長生きするようにと、「チョウニン、チョウニン、・・・・・・」で始まる百文字ほどもある長い名前をつける。ある日この子が井戸に落ち、目撃者が家に知らせるが、名前が余りに長いため、報告し終わらないうちに、井戸の中の子は水を飲んで死んでしまった。  

『竹斎』(仮名草子)  ある家の幼児が井戸に落ち、皆が騒いでいるところへ、藪医者竹斎が通りかかる。竹斎は、膿を吸い出す膏薬を井戸の蓋に貼り、「すぐ吸い上げるから、待ち給え」と請合う。しかし幼児は井戸の底で死んでしまい、竹斎は皆から袋叩きにされる。

★2.井戸に落ちて現世では死ぬが、死後の世界では幸せになれる。

『沙石集』巻2−5  地蔵を信仰する一家があった。その家の幼い子供が井戸に落ちて死んでしまったので、母は地蔵に恨み言を言った。その夜の夢に地蔵が現れ、「これは前世から定まった寿命だ。しかし後世(ごせ)は助けてやるぞ」と告げ、井戸の底から子供を背負って救い出した。この夢を見て、母の嘆きも少しやんだ。

★3.井戸に落ちる子供を救う。

『孟子』巻3「公孫丑章句」上  孟子が言った。「人間には皆、惻隠(あわれみ)の心が生まれつき備わっている。たとえば、幼児が井戸に落ちそうになっているのを見かければ、誰でも駆けつけて助けるであろう。惻隠の心はすなわち『仁』の芽生えである」。

『ルカによる福音書』第14章  水腫をわずらう人がいた。安息日にもかかわらず、イエスはただちにその人の病気を治した。律法学者やパリサイ(ファリサイ)人たちにむかい、イエスは言った。「自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

★4.「井戸に貴重品を落とした」と、子供が嘘を言う。

『伊曾保物語』(仮名草子)下−23  盗人が、子供の着物を剥ぎ取ろうと、寄って来る。それを察知した子供は、「井戸に黄金の釣瓶を落とした」と、嘘を言って泣く。盗人はこれを信じ、着物を脱いで井戸に下りて、釣瓶を探すが見つからない。その間に子供は、盗人の着物を奪ってどこかへ逃げてしまった。

★5.蠍(さそり)が井戸に落ちて溺れ死ぬ。

『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)  バルドラの野原に一匹の蠍がいて、小さな虫を殺して食べていた。ある日蠍は、いたちに追われ、井戸に落ちて溺れる。蠍は「同じ死ぬのなら、私の体をいたちに与えてやれば、いたちも一日生きのびただろうに」と思い、神に祈る→〔さそり〕1

★6.井戸に身投げする。

『七賢人物語』「第二の賢人の語る第二の物語」  若妻が老騎士の夫に飽き足りず、愛人と姦通して深夜に帰館する。怒った老騎士が戸口に錠を下ろしたので、若妻は「井戸に身を投げる」と言って、大きな石を井戸に投げこむ。老騎士は驚いて外へ出、その隙に若妻は館内に入って、老騎士を締め出した〔*『鸚鵡七十話』第25話に類話があり、そこでは商人とその妻という設定〕。

 

※井戸(あるいは井)に姿を映す→〔こだま〕1の『パンチャタントラ』巻1−8、→〔水鏡に映る自己〕3の『大和物語』第155段、→〔水鏡に映る未来〕1の『古今著聞集』巻7「術道」第9、→〔木登り〕7aの『天道さん金ん綱』(日本の昔話)。 

※井戸の中で命をねらわれる→〔継子殺し〕4の『舜子変』(敦煌変文)。

※井戸に落ちて、瓶(びん)から出て来た→〔ウロボロス〕4bの『一千一秒物語』(稲垣足穂)「どうして酔いよりさめたか?」。

 

 

【従兄弟・従姉妹】

★1.従兄弟・従姉妹の結婚。

『嵐が丘』(E・ブロンテ)  エドガー・リントンとキャサリン・アーンショーの間の娘キャサリン二世は、父エドガーの妹イザベラとヒースクリフの間の息子、つまり父方の従兄弟リントンと結婚する。リントンの病死後は、キャサリン二世は母キャサリンの兄ヒンドリーの息子、つまり母方の従兄弟ヘアトンと結ばれる〔*ヒースクリフが愛したキャサリンの甥と娘とが、結婚したわけである〕→〔結婚〕4a

『カンディード』(ヴォルテール)  ウェストファリアの伯父の城から追放されたカンディードは、リスボン、ブエノスアイレス、パリなど諸地方を遍歴し、途中、恋人の従妹キュネゴンド姫といったん巡り合ってまた別れる。何年かの後に、カンディードはコンスタンチノープルでキュネゴンド姫を見出し、彼女は外見も性質も醜く変わっていたが、かねての約束どおり二人は結婚する→〔追放〕2

『虞美人草』(夏目漱石)  法科出身で外交官になる宗近一(はじめ)と、哲学を専攻する病弱な甲野欽吾とは、従兄弟どうしであり、また親友でもあった。一の妹・糸子は、従兄にあたる欽吾を慕い、二人は結婚した。

*『彼岸過迄』の市蔵は、従妹(叔母の娘)との結婚を期待される→〔出生〕2e

*『こころ』の「先生」は、従妹(叔父の娘)との結婚を拒否する→〔チフス〕1

『源氏物語』「少女」「藤裏葉」  夕霧は生後すぐ母葵の上を失い、母方の祖母・大宮のもとで、従妹・雲居の雁と一緒に育ち、やがて二人は相思相愛の仲となった。雲居の雁の父・内大臣は「娘を東宮妃にしたい」と望むが叶わず、夕霧と雲居の雁は初恋を貫いて結婚する。

『苔の衣』  苔の衣の大納言(後に大将、そして出家)は、母(前斎宮)の妹・西院の上の娘、すなわち母方の従妹にあたる姫君を恋慕し、結婚する。二人の間に生まれた女児も、成長後、父大納言の姉・藤壺中宮の息子、すなわち父方の従兄である東宮と、結婚する。しかし東宮の弟兵部卿宮が、彼女に恋着する→〔兄弟と一人の女〕1

『母のない子と子のない母と』(壺井栄)  小豆島に住むおとらおばさんは、空襲で夫を亡くし、事故で一人息子を失った。おとらおばさんのいとこ捨男さんは、ソ連に抑留されており、内地の妻は病死して、二人の子供(一郎と四郎)が残された。子供好きのおとらおばさんは、一郎と四郎を自分の子のように可愛がり、面倒を見る。やがて捨男さんが、解放されて小豆島へ帰って来る。周囲の人たちの勧めで、おとらおばさんは捨男さんと結婚する。

*大洪水で生き残った従兄妹→〔洪水〕1の『変身物語』(オヴィディウス)巻1。

★2.従兄弟・従姉妹の恋。

『ウジェニー・グランデ』(バルザック)  吝嗇な金持ちグランデの家に、弟ギョームの手紙を持って甥シャルルが訪れる。手紙の中でギョームは、自らの破産と自殺の覚悟とを述べ、息子シャルルの将来をグランデに託す。グランデの一人娘ウジェニーは、従兄にあたるシャルルを一目見て心を奪われ、やがて二人は将来を誓い合う→〔妻〕4b

『狭衣物語』  堀川関白の子・狭衣は、兄妹のようにして育った従妹・源氏宮を恋するが、彼女はこれに応えようとはしない。賀茂の神託が源氏宮を斎院と定め、彼女は狭衣の手の届かぬ禁忌の人となった。狭衣は、源氏宮によく似た式部卿宮の姫君を見出して結婚するものの、源氏宮への思いはやまない。

『シラノ・ド・ベルジュラック』(ロスタン)  近衛青年隊のシラノは醜い大鼻のために、従妹ロクサーヌへの恋を打ち明けることができぬまま、同僚クリスチャンとロクサーヌの仲を取り持つ。しかしクリスチャンは戦死し、ロクサーヌは尼僧になる。その後十四年間、シラノは毎週土曜日に修道院を訪れてロクサーヌを慰めるが、ようやく彼女がシラノの恋を知った時、シラノは暗殺者の手にかかって瀕死の傷を負っていた。

『戯れに恋はすまじ』(ミュッセ)  男爵の一人息子・二十一歳のペルディカンは学位を取得し、その従妹・十八歳のカミーユは修道院での教育を終えて、それぞれ故郷に帰って来た。男爵は二人を結婚させようとするが、カミーユはペルディカンに心ひかれながらも、修道院で男性不信の教えを吹きこまれていたために、結婚を拒否する。二人の恋のかけひきの結果、村娘ロゼッタが死に、カミーユはペルディカンと別れる→〔演技〕5

『野菊の墓』(伊藤左千夫)  「僕(政夫)」の母は病気がちで、従姉の民子が家事の手伝いに来ている。「僕」たちは子供の時から大の仲良しだったが、「僕」が十五歳、民子が十七歳になる頃には、口さがない周囲が良からぬ噂をし、「僕」たちの仲を裂く。すべてをあきらめた民子は他家へ嫁に行き、流産して死んだ。「僕」は、民子の好きだった野菊を墓に植えた。

*青年が叔父の家に寄宿し、従妹と恋仲になる→〔下宿〕1bの『浮雲』(二葉亭四迷)。

*大学生と、人妻である従姉との恋→〔地名〕5の『武蔵野夫人』(大岡昇平)。

★3.二人の従姉妹。

『紅楼夢』  賈宝玉と父方の従妹・林黛玉とは、前世からの因縁で恋し合う間柄だった(*→〔転生〕4)。一方、母方の従姉・薛宝釵は、謎の僧から授かった「不離不棄、芳齢永継」の二句を彫った首飾りをつけており、それは、賈宝玉の頸にかけた美玉「通霊宝玉」に刻まれた文字「莫失莫忘、仙寿恒昌」と対になっていた。両親は賈宝玉を薛宝釵と結婚させ、林黛玉は病死した。それから一〜二年後、懐妊した薛宝釵を残したまま、賈宝玉は出家して行方知れずになった。

★4.従兄妹間の結婚の結果、子供にその影響が出ることがある。

『赤い風車』(ヒューストン)  ロートレック(演ずるのはホセ・フェラー)は、代々続く貴族の家に生まれた。彼は子供の頃、自邸の階段を転げ落ちて、両脚を骨折した。治療をしても、骨はもとどおりにくっつかず、医者は「一生このままだろう」と告げる。医者はロートレックの両親に「お二人は従兄妹どうしでしたね?」と尋ね、「そのせいかもしれません」と言う。

★5.従姉の娘との結婚。

『吉野葛』(谷崎潤一郎)  「私」の一高時代の友人・津村は、大阪の裕福な旧家の息子である。幼い頃に父母を失ったため祖母に育てられ、親の顔を知らない。祖母の死後、形見の品の中に、母に宛てた実家からの手紙があったので、津村はそれを手がかりに、母の実家・吉野の国栖(くず)村を訪ねる。そこで彼は、写真で見る母の面影をとどめた娘・お和佐に出会い、求婚する。彼女は母の姉(伯母)の孫、すなわち従姉の娘にあたるのだった。

★6.敵対する従父(いとこ)。

『今昔物語集』巻1−10  提婆達多は、仏(釈迦)の父方の従父(従弟)である。仏は浄飯王の子、提婆達多は浄飯王の弟黒飯王(こくぼんおう)の子、という関係になる。提婆達多は外道の典籍を学んで、仏に敵対した。仏弟子を奪う、仏身を傷つける、比丘尼を殺す、という三つの逆罪を犯したため、ついには大地が破裂して地獄へ堕ちた。

 

 

【犬】

 *関連項目→〔半犬半人〕

★1.犬は人間の忠実な家来である。

『近江国風土記』逸文  伊香刀美(いかとみ)という男が、天女たちの水浴を見た。彼は白犬に命じて、一人の天女の衣を奪わせた→〔水浴〕1a

『マハーバーラタ』第17巻「大いなる最後の旅の巻」  大戦争後ユディシュティラは退位し、四人の弟及び共通の妻ドラウパティーとともに、一頭の犬を供として旅に出る。ヒマラヤを越えて進むうちに妻と弟たちは次々に倒れ、ユディシュティラと犬だけになる。インドラ神がユディシュティラ一人を天界へ迎えようとするが、ユディシュティラは「この忠実な犬も連れて行く」と言う。犬はダルマ神に変じてユディシュティラの慈悲心を賞賛し、彼らは皆天界へ昇る。

『桃太郎』(日本の昔話)  鬼退治の旅に出た桃太郎は、犬に黍団子を与えて供とした。次いで猿と雉も供に加え、鬼が島に攻め入った(青森県三戸郡)→〔鬼〕4

*『オズの魔法使い』のドロシーは、愛犬トトと一緒の部屋にいて、オズの国まで運ばれる(*→〔風〕7a)。また、トトを捜していたために、故郷カンサスへ帰る気球に乗り遅れる(*→〔靴(履・沓・鞋)〕1)。

*犬が少女を助け、蛇を退治する→〔蛇退治〕4の『捜神記』巻19−1(通巻440話)

*犬が飼い主を助け、悪人を倒す→〔密通〕3aの『捜神後記』巻9−6(通巻100話)。

★2.飼い主とともに死んでいく犬。 

『フランダースの犬』(ウィーダ)  クリスマス・イヴの午後四時、老犬パトラッシュは夕闇の雪の中に茶革の袋を嗅ぎつけてくわえ出し、ネロに差し出す。それは、粉屋コゼツが落とした二千フラン入りの財布だったので、ネロはコゼツの留守宅に届ける。コゼツは、それまでのネロに対する冷たい仕打ちを悔い、娘アロアとの交際も認めようと言うが、時すでに遅く、ネロとパトラッシュはその夜凍死する→〔クリスマス〕3

『日本書紀』巻21崇峻天皇即位前紀  捕鳥部万(ととりべのよろづ。物部守屋の従者)が自刃し、その死体は朝廷の命令によって、八段に斬られた。万が飼っていた白犬が、死体の周囲をまわって吠え、死体の頭部をくわえて古い塚まで運んだ。白犬は塚の前に横たわり、餓死した。朝廷は白犬を称賛し、万の遺族は墓を二つ並べて造り、万と白犬を葬った。

★3.飼い主である老人の自殺を思いとどまらせる犬。

『ウンベルトD』(デ・シーカ)  独身の老人ウンベルト・ドメニコ(演ずるのはカルロ・バッティスティ)は、小犬のフライクと一緒に、アパートの一部屋で暮らしている。彼は公務員として三十年働いたが、年金支給額が少ないため家賃を払えず、アパートを出て行く。将来を悲観したウンベルトは踏切内に入り、フライクを抱いて列車に飛び込もうとする。しかしフライクは激しく鳴き、身をよじってウンベルトの腕をすりぬけ、逃げる。ウンベルトは、「残りの人生をフライクとともに生きよう」と考える。

*老人と老猫→〔猫〕8の『ハリーとトント』(マザースキー)。

★4.飼い主の死後も、その帰りを待つ犬。

『ハチ公物語』(神山征二郎)  秋田犬ハチは、大正十二年(1923)十二月に生まれた。ハチは、飼い主である東京帝大の上野秀次郎教授を、毎日、渋谷の駅まで送り迎えした。大正十四年(1925)、教授は講義中に脳溢血で急死し、上野家は売りに出されて、ハチは野良犬となった。それでも毎日夕方になると、ハチは渋谷駅へ来て、教授の帰りを待った。昭和十年(1935)三月八日、降りしきる雪の中、ハチは渋谷駅前で死んだ。

★5.人間の言いつけに忠実な余り、死んでしまう犬。

種原の犬の墓の伝説  村に大きな寺が二つあり、一匹の犬が両寺の用をしていた。一方の寺で鐘が鳴ると犬は駆けつけ、書状を首に結んで、もう一方の寺に届けた。ある時、両方の寺の鐘が同時に鳴ったので、犬はあちらか、こちらか、と走り回って、とうとう死んでしまった。村人は犬を憐れんで墓を作った(鳥取県西泊郡大山町)〔*→〔二人妻〕3の『三国伝記』巻1−25の犬と、やや似た印象がある〕。

★6.犬に道を譲る。

『イスラーム神秘主義聖者列伝』「バーヤズィード・バスターミー」  狭い曲がり角で一匹の犬に出会った時、導師バーヤズィードは身を引いて道を譲った。弟子にその理由を聞かれて、導師は答えた。「犬が心の声で、私に語りかけたのだ。『久遠の昔、天地創造の始源、私は何の落度があって、犬の皮膚を身につけているのか? あなたは何の功績があって、高い地位の衣を身にまとっているのか?』。こういう思いに心を動かされて、私は犬に道を譲ったのだ」。 

★7.人間の魂が犬に乗り移る。

『南総里見八犬伝』肇輯巻之3第6回・第2輯巻之1第12回  玉梓は処刑される時、金碗八郎と里見義実を呪い、「子々孫々まで畜生道に導こう」と言い遺した。玉梓の死後二ヵ月を経て、金碗八郎は自刃することとなった。さらに玉梓の怨魂は、犬の八房となって、十七年後に里見義実の娘・伏姫の死をもたらした。

★8.犬が人間に変身する。

『西班牙犬の家』(佐藤春夫)  「私」は犬の「フラテ」と散歩に出て、雑木林の中に西洋風の家を見つけ、中に入る。主人は留守らしく、そこには黒いスペイン犬がいるだけだった。帰りがけに「私」が窓から家の中を覗くと、スペイン犬は「今日は妙な奴に驚かされた」とつぶやいて、五十歳ほどの黒服の男になり、煙草をくわえ本を開いた。

『日本書紀』巻14雄略天皇13年(A.D.469)8月  小野臣大樹が兵士百人を率い、文石小麻呂の家を囲み、焼く。炎の中から、馬ほどの大きさの白犬が飛び出し、大樹臣を追う。大樹臣が刀を抜いて斬ると、白犬は文石小麻呂になった。

『もと犬』(落語)  白犬が蔵前の八幡様に願掛けして、二十一日目の満願の朝に人間になった。彼は千住の隠居の家に奉公するが、犬の性は抜けず、名前を問われて「白」と答え、「鉄瓶に湯が沸いてチンチンいっている」と聞いて、前足を上げチンチンをする。隠居が女中のおもとを呼んで「もとは居ぬか?」と言うと、白は「はい。今朝人間になりました」。

★9.人間を襲う犬。

『神統記』(ヘシオドス)  冥王の館の前の番犬ケルベロスは残忍な性質で、五十の首を持っている。館の内に入る人間には甘えるが、門から出ようとする者は捕らえ、容赦なくむさぼり喰う〔*『ギリシア神話』(アポロドロス)第2巻第5章では、三つの犬の頭と龍の尾を持ち、背にはあらゆる種類の蛇の頭を持っていた、と記す。『神曲』(ダンテ)「地獄篇」第6歌では、ケルベロスは地獄の第三圏におり、三つの口で死者たちを喰う〕 。

『バスカヴィル家の犬』(ドイル)  十八世紀中頃、ヒューゴー・バスカヴィルは、月下の沼沢地で巨大な犬に喉笛を喰い切られて殺された。バスカヴィルの血筋を受け継ぐ男がこの伝説を利用し、猛犬を手に入れて顔面に燐を塗り、眼が光り火を吐く魔犬を作り上げる。彼は、自分がバスカヴィル家の領地と資産を相続するために邪魔な親戚を、この犬を使って殺そうとする。

★10.人間の後をつける犬。

送り犬の伝説  夕方、おじいさんが山道を歩いていると、山犬がたくさん出て来てつきまとう。一頭がおじいさんの頭上を飛び越え、ちょんまげに爪をかけて引き倒そうとする。倒れると、山犬たちに襲われ、噛みつかれるので、おじいさんはまげを解き、髪をふり乱して村へ逃げ帰った(山梨県北巨摩郡高根町赤羽根。*村の近くまで来て「ありがとうよ」と言えば、送り犬は去って行くという)。

*もしも転んでしまったら、「一休みしている」と言わなければならない→〔のりなおし〕6の『山犬の話』(松谷みよ子『日本の伝説』)。

『フランス田園伝説集』(サンド)「田舎の夜の幻」  白い猟犬の幽霊が、人の後をつける。はじめは小さな犬に見えるが、そのうちに馬ぐらいの大きさになって、背中にとびついてくる。二〜三千ポンドの重さだ。家にたどり着いて戸口が見えるまでは離れない。この妖獣に出くわすのは、酒場で遅くなった時である。その後ろに二つ三つ鬼火がついて来て、沼や川へ引きずられ、溺れさせられなければ幸いだ。

★11.犬が狼に化す。

『荒野の呼び声』(ロンドン)  セントバーナードの父とシェパードの母との間に生まれた大型犬バックは、雪のアラスカ地方で、橇犬として活躍する。仲間のエスキモー犬たちとの闘争を経て、バックの中の野性が目覚めてゆく。バックが信頼していた飼い主ソーントンが、イェハット族に襲われ、殺される。バックは、イェハット族の何人かを噛み殺して敵(かたき)を討った後、人間世界を捨て、狼たちの群れに入る。バックは狼たちのリーダーとなり、山を駆ける。 

★12.「犬」の文字。

『犬の字』(落語)  白犬が神に祈って人間となり、白太郎という名前で、ある店の手代になる。店の主人が、白太郎は完全に人間になったかどうか見きわめようと、寝姿をのぞく。白太郎は枕をはずし、大の字になって寝ている。主人はがっかりして言う。「やはり前身が知れる。大の字の肩の上に、枕でチョンを打ってある」。

『江談抄』第2−9  上東門院が一条帝の女御だった時、帳の内に犬の子が入っており、人々が怪しんだ。大江匡衡が「犬の字は点を大の下につけると太、上につけると天の字になる。これは、皇子が誕生し、太子となり天子となる兆」と言う。果たして上東門院は懐妊し、後朱雀帝を産んだ〔*『十訓抄』第1−21の異伝では、後一条帝を産んだとする〕。

『南総里見八犬伝』第2輯巻之2第14回  里見義実は、金碗大輔を娘伏姫の婿にする心づもりだった。その伏姫が切腹して死に、金碗大輔も後を追って自殺しようとする。里見義実はそれをとどめ、「入道して仏に仕えよ」と金碗大輔に命ずる。金碗大輔は「伏姫の死も我が出家も、みな八房ゆえ。犬にも及ばぬ大輔は、犬という字を二つに裂き、丶大(ちゅだい)と名乗りましょう」と述べ、日本廻国の旅に出る。

★13.犬の口に手を入れる。

『古今著聞集』巻16「興言利口」第25・通巻525話  やたらに人に噛みつく犬がいた。この犬を取り押さえることができるかどうか、随身友正が朋輩と賭けをする。友正は、飛びかかって来る犬の口に、握ったこぶしを突き入れる。そのため、犬は噛むことができない。友正はもう一方の手で、犬を死ぬほど撲りつける。このことがあって以来、犬は人に噛みつくことがなくなった。 

*犬ならばよいが、狼の口に腕を入れると、噛み切られる、あるいは噛み砕かれる→〔狼〕7の『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)』(スノリ)第34章など。

 

 

【犬に転生】

★1.人間が犬に転生する。

『今昔物語集』巻3−20  天竺の男が火天(火の神アグニ)を祭り、死後は梵天(色界の初禅天)に生まれることを願った。しかし彼は、犬となって再びこの世に転生し、息子の家で飼われた。息子は犬の素性を知らなかったが、托鉢に訪れた仏が「この犬は、汝の父である」と教えた。

『日本霊異記』下−2  狐にとりつかれて病気になった人が、永興禅師の祈祷を受けるが、結局死んでしまった。その人は狐に仕返しするため、ただちに犬に転生した。一年後、永興禅師の弟子が病気になった時、犬は、弟子にとりついている狐をくわえて引きずり出し、噛み殺した。

*犬に転生して、憎い敵を食らう→〔動物音声〕1の『十訓抄』第4−16。

★2.仔犬を見て、友人の転生した姿であることを知る。

『ギリシア哲学者列伝』(ラエルティオス)第8巻第1章「ピュタゴラス」  ある時ピュタゴラスは、仔犬が杖で打たれている傍を通りかかった。ピュタゴラスは憐れみの心にかられて言った。「よせ。打つな。その犬は、私の友人の魂なのだから。啼き声を聞いて、それとわかったのだ」。 

★3.仔犬を見て、自分の父母の転生した姿かもしれぬ、と思う。

『明惠上人伝記』  明惠上人は、八歳で両親を失った〔*治承四年(1180)一月に母が病死。九月に父平重国が戦死〕。ある時、上人は、犬の仔をまたいだことがあった。その後で上人は、「これは私の父母の転生した姿かもしれない」と考え、すぐに引き返して犬の仔を拝んだ。  

★4.犬を見ても、恋人の転生した姿であることを知らない。

『語らい』(星新一『マイ国家』)  女が、連絡の途絶えた恋人の思い出を、路傍の犬に語る。実は、すでに恋人は事故死しており、彼の魂は犬に宿ってこの世へ戻った。女は、目前の犬が恋人の生まれ変わりとは知らず、恋人への恨みを語り続ける。犬は尾をちぎれるほど振って、小さく吠えるだけである。 

*牝犬を見せて、「貴女の前世における姉妹が転生した姿だ」と、嘘を教える→〔前世を知る〕3の『鸚鵡七十話』第2話。

★5.何度も何度も犬に生まれ変わる。

『宝物集』(七巻本)巻2  いったん畜生道に生まれると、そこから出ることは難しい。昔、釈迦如来は犬に生まれた。白犬に生まれて死んだ屍(かばね)を積み上げると、須弥山を一億も重ねたほどの高さになった。さらに、黒まだらの犬、赤まだらの犬などにも生まれたのだから、その屍の数は、どれほどの多さであろうか→〔鳩〕3b。 

*何度も狐に生まれ変わり、狐の身を脱することができない→〔狐〕10の『無門関』(慧開)2「百丈野狐」。 

★6.人間が犬に転生し、その犬が再び人間に転生したのが、現在の自分かもしれぬ、という空想。

『犬』(正岡子規)  昔、天竺の閼迦衛奴(あかいぬ)国に住む一人の男が、王の愛犬を殺して死刑になった。男は、粟散辺土(ぞくさんへんど)である日本の信州に、犬として生まれ変わった。信州には肴がないので、犬は、姨捨山(うばすてやま)の姨を喰った。その罪深い犬が転生したのが、現在の僕(正岡子規)ではあるまいか→〔前世〕4b

 

 

【犬の教え】

★1.犬が人間に危険を知らせる、宝のありかを知らせるなど、貴重な情報をもたらす。

『宇治拾遺物語』巻14−10  藤原道長が法成寺の門を入ろうとした時、白犬が引き止めるので、安部晴明に占わせると、呪物が道に埋めてあることがわかった。「犬は通力のものにて、告げ申して候」と晴明は言った(『十訓抄』第7−21・『古事談』巻6−62に同話)→〔呪い〕4

『日本書紀』巻7景行天皇40年(A.D.110)是歳  ヤマトタケルは東征からの帰途、信濃国の山中で道に迷った。その時どこからともなく白い犬が現れ、ヤマトタケルは犬に導かれて美濃国に出ることができた。

*愛犬シロが、小判のありかを正直爺に教える→〔隣の爺〕1の『花咲か爺』(日本の昔話)。

★2.犬の教えを無視して出かけ、暗殺される。

『捜神記』巻9−10(通巻246話)  呉の諸葛恪は、朝廷の会同に出る前夜、胸騒ぎがして眠れなかった。朝になって家を出ようとすると、飼い犬が繰り返し着物をくわえて引っ張った。諸葛恪は犬を追い払って参内し、暗殺された。

★3.犬の教えを悟らず、その犬を殺してしまう。

『弘法様の麦盗み』(日本の昔話)  唐へ行った弘法大師が、自分の腓(こむら)を切り裂いて中に麦種を隠し、日本に持ち帰ろうとする。犬が吠えて、そのことを唐人たちに知らせる。しかし、弘法大師を裸にして調べても、怪しいところがなかった。唐人たちは「犬の頭が狂ったのだ」と思い、犬を殺した。

『三国伝記』巻2−18  狩人が山中の朽木の下で野宿をする。つないでおいた犬が、夜更けに主に向かって吠えかかる。狩人は怒って刀で犬の首を打ち落とす。首は樹上に飛び、狩人を狙っていた大蛇に食らいつく。犬は主を蛇から救おうとしていたのだった〔*『今昔物語集』巻29−32の類話では、犬は殺されずにすむ〕。

『諸国里人談』(菊岡沾凉)巻1・1「神祇」犬頭社  天正年中(1573〜92)、領主宇津左衛門五郎忠茂が猟をしに山へ入り、一樹の下でにわかに睡(ねむり)を催した。手飼いの白犬が衣の裾を咬み、吠えかかって睡眠を妨げるので、忠茂は怒り、腰刀を抜いて犬を斬る。犬の頭は飛んで、樹上の大蛇の頭に噛みつく。忠茂はこれを見て驚き、蛇を殺した。忠茂は白犬の忠情を感じ、犬頭犬尾を両和田村に埋めて祭った。

*主人に忠義を尽くして殺される動物たち→〔誤解による殺害〕1の『ごん狐』(新美南吉)など。

 

※犬が赤子を育てる→〔動物傅育〕2の『今昔物語集』巻19−44。

※犬の結婚を契機に、その飼い主どうしも結婚する→〔身分〕9の『皇帝円舞曲』(ワイルダー)。

 

 

【犬婿】

★1.犬婿と人間の娘。

『今昔物語集』巻31−15  京の某所に住む娘が、大きな白犬にさらわれ、北山の柴の庵で、その犬と夫婦生活をして年月を送っていた。このことを知った大勢の男たちが、犬を殺して女を救い出そうと、弓や刀を持って出かける。しかし犬は女とともに、山奥深くへ姿を隠してしまった。

★2.犬が、人間の娘二人と交わる。

『唐物語』27  都の人の娘と、その乳母子(めのとご)である娘が、深山の庵に住んでいた。乳母子の娘は、どこからかやって来た一匹の犬をたいへん可愛がった。懐に抱いていたりするうちに、乳母子の娘の心はあやしく乱れ、とうとう犬と交わってしまう。主人である娘がこのありさまを見、自分もその犬を呼び入れて交わる。この犬の名は「雪々」といった〔*犬の名を「雪山」とする伝本もある〕。 

★3.犬が、人間の女大勢と交わる。

『素戔嗚尊』(芥川龍之介)  高天原を追放された素戔嗚(すさのを)は、山の洞穴で、大気都姫(おほけつひめ)や彼女の十六人の妹たちとともに、歓楽の日々を送る。そのうち女たちは、どこからか連れて来た大きな黒犬と交わるようになる。素戔嗚は怒り、太刀を抜いて黒犬を殺そうとする。しかし犬は逃げ、太刀は大気都姫の胸を刺してしまった〔*この後、素戔嗚は出雲国へ向かい、櫛名田姫と出会う〕。 

★4a.犬婿と人間の娘の間に生まれた子供たち。

『アイヌの起こり』(アイヌの昔話)  昔、はるか南の国から、女神が小舟にゆられて日高海岸に漂着した。一匹の雄犬が現れ、女神を洞穴へ連れて行く。女神は雄犬を夫として、男児一人、女児一人を産んだ。男児と女児は成人して夫婦になり、たくさんの子を産んだ。こうして北海道にアイヌが栄えることとなったのである。

『捜神記』巻14−2(通巻341話)  高辛氏の王が「夷狄の将軍の首を取った者には、姫を与える」と約束する。飼い犬の盤瓠(ばんこ)が敵将の首を取って来たので、やむをえず王は姫を与える。盤瓠と姫は山に入って暮らし、六男六女ができる。

龍犬盤瓠(ばんこ)王となる(中国・ヤオ族の神話)  高辛王に三人の王女があり、王宮にまだらの龍犬が飼われていた。番王が攻め込んで来たので、高辛王は「番王を滅ぼした者に、王女の一人を嫁がせる」と告示する。龍犬が番王の首をとり、王女を要求する。長女・次女は拒絶し、三女が龍犬の妻になる。龍犬は人間に変身して(*→〔待つべき期間〕1b)南京十宝殿の盤瓠王となり、妻との間に六男六女をもうけた。これがヤオ族の始祖である。

★4b.犬婿と人間の女の間に生まれた犬頭人身の子供たち。

『高丘親王航海記』(澁澤龍彦)「蜜人」  昔、ベンガル湾に臨むアラカン国に好色淫靡の風がはびこり、貴族の女たちは、犬と交わることを一種の高級な消閑と見なした。その結果、犬頭人身の男たちが続々と誕生し、全人口の五分の一に達する。国王はこれを憂え、犬どもを殺すとともに、犬頭の男たちの性器に鈴を装着して生殖活動を妨げ、犬頭人の根絶をはかった。

*伏姫が水に姿を映すと、犬頭人身だった→〔半犬半人〕1の『南総里見八犬伝』第2輯巻之1第12回。

★5.直接交わることなく、犬の気を受けて娘が懐妊する。

『南総里見八犬伝』  八房の体毛は白に黒が混じり、首から尾まで八ヵ所の斑毛(ぶち)になっていた。八房は伏姫を背負って富山に入り、伏姫は八房の気を受けて懐胎した。伏姫の死後(*→〔性交〕9)、一年〜十七年を経て、相次いで八人の犬士が誕生したが、彼らの身体には一つずつ、牡丹花型の黒い痣(あざ)があった〔*→〔蛇婿〕6の『平家物語』巻8「緒環」の、蛇の子であるしるしが身体に残る物語と類似した発想〕。

★6a.人間の男が、犬婿を殺す。

『犬婿入り』(日本の昔話)  分限者の娘が犬を婿として、山奥で暮らす。娘は毎日、犬の首に金をつけ、犬は里に下りて米を買って来る。ある日、鉄砲撃ちが犬を殺し、山奥へ入って娘の夫になる。二人の間には子供が七人できる。何年もたってから、夫が「実は、わしが犬を殺した」と打ち明ける。娘は怒り、夫を包丁で突き殺して犬の仇を討つ。だから「七人の子をなすとも、女に気を許すな」と言う(兵庫県美方郡温泉町海上)。

★6b.犬婿が、人間の男を殺す。

『聊斎志異』巻1−19「犬姦」  商用で、他郷へ長期間出かける夫がいた。夫の留守中、妻は飼い犬を手なづけて交わった。ある日、夫が帰って来て妻と寝たところ、犬は夫を噛み殺してしまった。犬と妻は捕らえられ、遠方の役所へ護送される。道中の宿泊地では、いつも数百人が犬と女の交合を見物した。護送の役人は、料金を取って大儲けした。犬と女は、寸磔(一寸刻みにする刑)に処されて死んだ。 

★7.犬が人間に化けて女と交わる。

『幽明録』22「老犬の妖怪」  晋の秘書監・温敬林が、死んで一年たってから、妻の所へ帰って来た。妻は再び敬林と夫婦生活を始め、一緒に寝た。敬林は若い人とは会いたがらず、甥が来た時には、小窓から顔を出して会った。後に敬林は酔いつぶれて、正体をあらわした。それは隣家の黄色い老犬だったので、叩き殺した。 

★8.狗国。

『和漢三才図会』巻第14・外夷人物「狗国」  明代の百科全書『三才図会』によれば、狗国の人は身体は人間で首は狗(いぬ)、長毛で着物は着ず、言語は犬の吠え声のようである。彼らの妻はみな人間で漢語を話し、貂鼠皮(てんのかわ)を身につけている。狗国の人は穴居して生ものを食べるが、妻女は煮熟したものを食べる→〔逃走〕1

 

 

【猪】

★1a.伊吹山の神の化身である猪。

『古事記』中巻  伊吹山の神を討ち取りに出かけたヤマトタケルが、牛ほどの大きさの白猪に出会う。ヤマトタケルは「これは神の使者であろう。今は殺さず、帰る時に殺そう」と言挙げする。ところがその猪は使者ではなく、山の神自身であった。ヤマトタケルの大言壮語に怒った神は、大氷雨を降らせてヤマトタケルを苦しめ、彼の意識を半ば失わせた。

★1b.ヴィシュヌ神の化身である猪。

『バーガヴァタ・プラーナ』  大地が水中に没していた時、マヌは、父である梵天ブラフマーに「大地を水の上へ持ち上げてほしい」と頼んだ。ブラフマーがヴィシュヌ神に祈ると、突然、ブラフマーの鼻孔から親指ほどの小さな猪が出て来た。ヴィシュヌ神の化身である猪は、たちまち山のように巨大な姿となって水中に飛び込み、牙で大地を救い上げた。 

★2.猪狩り。

『変身物語』(オヴィディウス)巻8  女神ディアナ(アルテミス)が、カリュドンの王オイネウスの畑に、一頭の巨大な野猪を放った。猪は作物を荒らし、家畜を襲ったので、人々は嘆き、逃げまどう。猪を退治するために大勢の男たちがやって来るが、その中に紅一点、美女アタランテもいた。青年メレアグロスが槍で猪を突き殺し、手柄をアタランテに譲る。これに男たちが怒り、メレアグロスとの間に争いが起こる〔*『ギリシア神話』(アポロドロス)第1巻第8章に類話〕→〔体外の魂〕1

『メリュジーヌ物語』(クードレット)  レイモン(レイモンダン)が、主君エムリ伯に従って猪狩りに出かける。一頭の猪が突進して来るので、レイモンは槍で打つ。槍は猪の背中に当たって滑り、エムリ伯の腹に刺さってしまう。レイモンはすぐに槍を引き抜き、猪を突き殺してからエムリ伯のもとへ駆け寄るが、すでに伯は死んでいた〔*レイモンは森をさまよい、メリュジーヌに出会う。彼女は「鹿の皮一枚分の土地を買え」と教える〕→〔土地〕2b

*猪を撃つつもりで、人間を撃ってしまう→〔仇討ち(父の)〕4の『仮名手本忠臣蔵』5段目、→〔誤射〕1の『寝園』(横光利一)。

★3.猪の牙で殺される。

『ケルトの神話』(井村君江)「ディルムッドとグラーニャの恋」  美貌の騎士ディルムッドは、王の娘グラーニャに愛され(*→〔ほくろ〕6)、二人の間には四人の息子が生まれた。幸福で平和な日々が続いた後、ある日、ディルムッドの命を長年ねらっていた猪(*→〔杖〕4b)が襲いかかり、鋭い牙で彼をはね上げて地面へたたきつけた〔*その瞬間、瀕死のディルムッドも、剣で猪の脳をえぐった〕。

『変身物語』(オヴィディウス)巻10  女神ヴェヌスは美少年アドニスを愛し、熊や獅子や猪などの獣を甘く見ないようにと、つねづね言い聞かせていた。しかし血気盛んなアドニスは、ある時、森から出て来た猪をしとめようと、槍で突いた。猪は槍を払い落とし、逃げるアドニスを追いかけて、鋭い牙で突き殺した〔*『ギリシア神話』(アポロドロス)第3巻第14章は、アドニスはまだ子供の時に、女神アルテミスの怒りによって、狩の最中、猪に傷つけられて死んだ、と記す〕。

★4.死者たちが猪の肉を食べる。

『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)(スノリ)第38章  この世の初めから、地上で戦死した者たちは、すべて天上の宮殿ヴァルハラ(ワルハラ)にいる。オーディンが彼らに食料として与える猪は、どんなに大勢の人間がいても食べ尽くせない。この猪は毎日料理しても、夕方には体がまたもとに戻る。オーディン自身は食物を必要とせず、彼は食卓の肉を二匹の狼に与える〔*オーディンにとっては葡萄酒が、飲物でも食物でもあるのだ〕。

*猪の肉と思って観音の木像を食べる→〔傷あと〕4の『今昔物語集』巻16−4。

★5.猪に似せた石。

『古事記』上巻  八十神(やそかみ)たちがオホナムヂ(大国主命)を殺そうと思い、山の麓へ連れて行く。そして、「赤い猪がこの山にいる。我々が猪を追いおろすから、お前は下にいて捕らえよ」と命ずる。八十神たちは猪に似た大石を、火で赤く焼いて転がし落とす。オホナムヂはその石を捕らえようとして、焼け死んだ→〔蘇生〕1

*鹿と思ったら石だった→〔鹿〕2の『遠野物語』(柳田国男)61。  

*虎と思ったら石だった→〔石〕9cの『捜神記』巻11−1(通巻263話)。

★6.猪頭人身。

『今昔物語集』巻2−35  天竺に、天から一人の天人が降下した。その身は金色だが頭は猪で、不浄の物を求めて食った。この天人は前世で慳貪な人妻だった。夫が乞食僧に布施するのを止(と)めた報いで、猪頭となった。しかし、一度だけ腰をかがめて乞食僧を礼拝した功徳で、金色の身を得たのだ。

 

※人間の赤ん坊を、猪の子とすりかえる→〔取り替え子〕1bの『今昔物語集』巻4−3。

※木に登る人と猪→〔木登り〕6の『古事記』中巻など。

 

 

【命乞い】

★1a.鰻が人間の姿をとって訪れ、命乞いをする。

『百物語』(杉浦日向子)其ノ7  虎の御門の御濠さらいの前夜、一人の人足の所に男が訪れ、「御濠に住む四尺の大鰻を殺さぬように」と請う。人足は承知し、男に麦飯をふるまって帰す。翌日、人足がさらい場へ行くと、すでに大鰻は打ち殺されたあとで、裂かれた腹からは麦飯が出て来た〔*『耳袋』巻之8「鰻の怪の事」に類話〕。

★1b.魚が人間の夢に現れて命乞いをする。

『今昔物語集』巻20−34  上津(かむつ)出雲寺の別当浄覚の夢に、亡父が現れる。亡父は「私は鯰(なまず)に転生した。明日私の姿を見たら、殺さずに桂川へ放生してくれ」と請う。翌日、浄覚は鯰を見つけるが、亡父と知りつつ殺し、ぶつ切りにして鍋で煮て食べる。「普通の鯰より美味だ。父の肉だから、うまいのだろう」と浄覚は喜ぶ。そのうち大きな骨が喉にささり、これを取ることができず、浄覚は死んでしまった。

*神の化身であるウニやウナギを食べて死ぬ→〔食物〕6cの『金枝篇』(初版)第3章第10節。

『太平広記』巻467所引『宣室志』  柳宗元が駅舎に泊まった夜、黄衣の婦人が命乞いする夢を三度見る。「明日の宴の膳に上る魚かもしれぬ」と柳宗元は考え、役人に問うと、「大きな黄鱗魚の首を切りました」と答える。柳宗元は黄鱗魚の死骸を河に捨てさせるが、その夜の彼の夢に、首のない婦人が現れた。

*「鯉の化身の人が夢に現れた」と嘘を言う→〔禁制〕1の『半七捕物帳』(岡本綺堂)「むらさき鯉」。

★2.蟹が人間の夢に現れて命乞いをする。

『閲微草堂筆記』「姑妄聴之」巻15「蟹の前世」  某役人の夢に、以前死んだ下男下女数十人が現れ、「生前、私たちは徒党を組んで悪事を働いたため、蟹になってしまい(*→〔蟹〕5)、転生するたびに釜茹での苦しみを受けています。明日ご主人様が召し上がる蟹は、私たちの生まれ変わった姿です。どうかお救い下さい」と請う。某役人は料理人に「蟹を水に放せ」と命ずるが、料理人は蟹を茹でてしまった。

★3.亀が人間の夢に現れて命乞いをする。

『和漢三才図会』巻第46・介甲部「水亀」  亀は霊物なので、軽々しく殺してはならない。亀は人間が自分を殺そうとしている心を知って、その人の夢に現れ、折傷(うちみ)薬、糟蒸(かすむし)法を告げて殺されるのを免れた、という類の話は少なくない。

★4.猿神が、人間の神主の口を借りて命乞いをする。

『今昔物語集』巻26−7  猟師が猛犬を用いて猿神を打ち倒し、刀を突きつけて、「お前の首を斬って、犬に食わせてやろう」と言う。猿神は神社の神主に憑依し、神主の口を借りて、「これからは二度と生贄を要求しない。我を助けよ」と命乞いする。猟師が猿神を放してやると、猿神は山へ逃げて行った。

 

 

【衣服】

 *関連項目→〔天人の衣〕

★1.衣服・衣装の力。

『形』(菊池寛)  戦国時代。中村新兵衛は唐冠の兜と猩々緋の服折(はおり)姿で槍をふるい、「槍中村」と呼ばれ、恐れられた。初陣の若侍が新兵衛の兜と服折を借り、これを着て戦場に出る。敵は、唐冠と猩々緋を見ただけで、怖気(おじけ)づき浮き足立って、たやすく討たれる。その後に本物の新兵衛が、普段と異なる南蛮鉄の兜と黒皮縅の冑(よろい)で出陣する。敵兵は少しも恐れず応戦し、新兵衛は討たれてしまう。

*王が、王衣を別の着物に着替えて戦場に出る→〔犠牲〕5の『ゲスタ・ロマノルム』41。

『正法眼蔵随聞記』第6−8  宇治の関白・藤原頼通が粗服で宮中の御湯殿へ行き、火を焚く所を見ていると、役人に「何者だ」と咎められ、追い出されてしまった。頼通は関白の装束に着替え、もう一度、御湯殿へ行くと、役人はすっかり恐縮して逃げ去った。その時、頼通は装束を脱いで竿の先にかけ、拝礼して、「人が私を貴(たつと)ぶのは、我が徳にあらず。ただ、この装束ゆえなり」と言った。 

★2.人を焼き殺す衣服。

『ギリシア神話』(アポロドロス)第1巻第9章  イアソンとメデイアは夫婦となり、コリントスで十年間幸福に暮らした。しかしその後、イアソンはメディアと離婚し、コリントス王クレオンの娘グラウケと結婚する。メディアはイアソンを責め、毒薬に浸(ひた)した衣を新婦グラウケに贈った。衣を着たグラウケは、助けに来た父王クレオンともども、烈火によって焼き尽くされた〔*『変身物語』(オヴィディウス)巻7に簡略な記事〕。

『変身物語』(オヴィディウス)巻9  ネッソスの血とヒュドラの毒で染められた衣(*→〔妻〕2)を、そうとは知らずに、ヘラクレスは肩にまとう。たちまち衣は恐ろしい熱を発して、ヘラクレスの全身を焼いた。衣を身体から剥ぎ取ろうとすると、肉もいっしょに剥がれ、骨が露出した。すさまじい責め苦から逃れるために、ヘラクレスは木々を切り倒して積み上げ、そこに横たわって自らを火葬にした〔*『ギリシア神話』(アポロドロス)第2巻第7章に簡略な記事〕。

★3a.白い衣服が死を招き寄せる。

『夏の葬列』(山川方夫)  太平洋戦争末期。小学校三年生の「彼」は、海岸の町に疎開していた。白昼、米軍の艦載機が飛来して、町の人々を銃撃する。大人が「ひっこんでろ、その女の子。走っちゃだめ! 白い服は絶好の目標になるんだ」と叫ぶ。真っ白なワンピースを着た五年生のヒロ子さんが、「彼」を防空壕へ連れて行こうと走って来る。「彼」は「向こうへ行け! 目立っちゃうじゃないかよ!」と叫んで、ヒロ子さんを突きとばす。ヒロ子さんの身体は、機銃掃射を受けて宙に浮いた。

*王の衣裳を着て、死神を招き寄せる→〔王〕3aの『文字禍』(中島敦)。

★3b.貴族の装束のおかげで、死を免れた。

『宇治拾遺物語』巻2−11  大学頭(だいがくのかみ)明衡が、ある夜、下賤の者の家の一部屋を借りて、愛人と寝た。下賤の者はそのことを知らず、自分の妻のもとへ情夫が来ているものと誤解し、眠る明衡を、刀で突き殺そうとする。ところが月の光で、身分高い貴族がはく指貫(さしぬき)袴の括り紐が見えたので、下賤の者は「我が妻のもとへ、指貫袴をはくような高貴な人が来るはずがない。人違いかもしれぬ」と察して、その場を退いた。明衡は、指貫袴のおかげで命拾いした。

*女の着物のおかげで、死を免れた→〔女装〕9の『続玄怪録』5「冥土の大工」。

★4.衣服を腐らせる。

『古事記』中巻  稲城(いなき)にこもった后サホビメを連れ戻そうと、垂仁天皇が力士(ちからびと)たちに、「髪でも手でも、どこでもつかまえて后を引きずり出せ」と命ずる。サホビメはこのことを前もって察知し、髪を剃ってその髪で頭を覆い、玉の緒や衣服を酒で腐らせておいた。力士たちがサホビメをとらえようとすると、髪は抜け落ち、玉の緒は切れ、衣服は破れて、サホビメを連れ戻すことはできなかった〔*『日本書紀』巻6垂仁天皇5年10月の狭穂姫(サホビメ)の物語には、衣服を腐らせる話はない〕。

*着物を腐らせて、高台から投身する→〔投身自殺〕1の『捜神記』巻11−32(通巻294話)。

★5.衣服を取り替えて着る。

『東海道四谷怪談』(鶴屋南北)「浅草裏田圃」  お袖(お岩の妹)は佐藤与茂七と夫婦関係にあったが、悪人直助がお袖に横恋慕し、邪魔な与茂七を殺そうと待ち伏せする。塩冶浪士である与茂七は、自らの正体を隠して活動するために、朋輩の奥田庄三郎と着物を取り替える。直助は、与茂七の着物を着た庄三郎を刺し殺し、「与茂七を殺した」と思い込んで、お袖を口説きにかかる。

*王子と乞食が衣服を取り替える→〔入れ替わり〕2aの『王子と乞食』(トゥエイン)。

*殿様と百姓が衣服を取り替える→〔入れ替わり〕2bの『絵姿女房』(日本の昔話)。

★6.衣服に触れるだけで病気が治る。

『マルコによる福音書』第5章  イエスを取りまく群集の中に、十二年間も出血の止まらない女がいた。女は癒しを求めて、後ろからイエスの服に触れる。すぐに出血が止まり、女は病気が治ったことを身体に感じた。イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づき、「わたしの服に触れたのは誰か?」と問う。女が進み出てひれ伏すと、イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して、元気に暮らしなさい」と言った〔*『マタイ』第9章・『ルカ』第8章に類話〕。

★7.女の移り香がしみついた薄衣。

『源氏物語』「空蝉」  光源氏は空蝉の寝所にしのび入るが、彼女は源氏の気配を察知し、夜着として掛けていた薄衣を残して、部屋の外へ逃れた。薄衣は、懐かしい空蝉の移り香がしみついた小袿(こうちき)だったので、源氏はそれをいつも身近に置き、御衣(おんぞ)の下に引き入れて寝たりもした。

*女の匂いが残る蒲団や夜着→〔ふとん〕1の『蒲団』(田山花袋)。

★8.衣服と文化。

『ビルマの竪琴』(竹山道雄)第2話「青い鸚哥(インコ)」  われわれ日本兵はビルマの捕虜収容所で、彼我の文化の違いを議論した。ビルマでは、男は若い頃かならず一度は僧になって修行する。日本では若い人は皆軍服を着たのに、ビルマでは袈裟をつけるのだ。日本人も昔は袈裟に近い和服を着ていたが、近頃は軍服に近い洋服を着る。これは生き方の違いを表すのだろう。一方は人間が自力をたのんで、すべてを支配しようとする。一方は我(が)を捨てて、人間以上の広い深い天地にとけこもうとするのだ。

★9a.衣服の片袖。

袖もぎ様(水木しげる『図説日本妖怪大鑑』)  行路の安全を祈る旅人が、自分の着物の片袖を取って、「袖もぎ様」の祠に捧げる慣わしがある。中国・四国地方の「袖もぎ」という地名の所では、そこで転んだりした時には、着物の片袖を取って棄てなければならない。兵庫県佐用郡では、薬師の辻堂のある所で倒れたら、片袖をちぎって帰らないと死ぬ、とまで言われている。

『妖怪談義』(柳田国男)「妖怪名彙(ソデヒキコゾウ)」  埼玉県西部では、「袖引小僧」の怪を説く村が多い。夕方、路を通ると、後ろから袖を引く者がある。驚いて振り返っても、誰もいない。歩き出すと、また引かれる。

*後ろから自転車を引っ張る→〔自転車〕5の『現代民話考』(松谷みよ子)3「偽汽車ほか」第3章の1。

★9b.死者と会った証拠の片袖。

『善知鳥(うとう)(能)  陸奥の外の浜まで行脚する僧が、途中、立山地獄(*→〔山と死〕1の『今昔物語集』巻14−7)に立ち寄る。前年死んだ外の浜の猟師の霊が現れ、「我が妻子のもとを尋ねてほしい」と請い、「自分と会った証拠に」と、着ている麻衣の片袖を引きちぎって僧に手渡す。僧は片袖を猟師の遺族に届け、それは猟師の形見の衣とぴったり合わさった。

『片袖』(落語)  富家の娘の墓を悪人があばき、簪や衣装を盗み取った。悪人は六部(=巡礼)姿となって、娘の百ヵ日法要の場を訪れ、「立山地獄で娘の幽霊から『供養のため高野山へ祠堂金五十両を納めてほしい』と頼まれた。これが証拠だ」と言って片袖を示す。紛れもなく娘の棺に納めた衣装の片袖なので、父親はすっかり信用し、祠堂金五十両と路用の五十両、計百両を六部に与えた。

★10.狂犬に咬(か)まれた衣服。

『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー)「ミュンヒハウゼン男爵自身の話」  ある時、「ワガハイ(ミュンヒハウゼン男爵)」は狂犬に追われ、外套を投げ捨てて家へ逃げ帰った。後から召使いが外套を取りに行き、衣裳戸棚にしまった。翌日、召使いが「たいへんだ。外套の気がふれた」と叫ぶので、見に行くと、外套が「ワガハイ」の衣類に襲いかかり、咬み裂いてズタズタにしていた〔*狂犬に咬まれた外套が、狂犬化したのである〕。

★11.幽霊が衣服を身につけている理由。

『海岸のさわぎ』(星新一『たくさんのタブー』)  死者が幽霊となってこの世に出現することは、きわめて困難だ。だから、この世に執念を残す死者は、生きている人に念力を送る。それを受けた人は、死者についての生前の印象が呼びさまされ、幻影を見る。それで幽霊(実はただの幻影)は、生きていた時と同じ衣服を着ているように見えるのだ〔*一人の美女が、死後、本物の幽霊としてこの世に出現する技術を開発し、全裸で海水浴場にあらわれた→〔裸〕7〕。

★12.もぬけのからの衣。

『酉陽雑俎』続集巻3−937  興元の城固県に住む韋氏の娘は、二歳のとき話ができ、ひとりでに文字を知り、仏教の経文を好んで読んだ。五歳の年には、県内のあらゆる経文に、残らず目を通していた。八歳のとき、ある朝早く、衣に香をたきこみ、化粧をして、窓の下にひかえていた。父母が怪しんで見に行くと、衣はもぬけのからで、娘はいなくなっていた。どこへ行ったのか、わからずじまいだった。

★13.夫婦の間に、衣が一枚しかない。

『今昔物語集』巻1−32  勝義夫婦はたいへん貧しく、二人の間に麻の衣が一枚しかなかった。だから、夫が外出する時は妻は裸、妻が外出する時は夫は裸だった。迦葉(かしょう)尊者が托鉢に訪れた時、勝義の妻は、たった一枚の衣を布施して、「私は赤裸になります。尊者よ、しばらく目をふさぎ給え」と請うた。仏はこれを知って讃嘆し、波斯匿王は勝義夫婦に多くの財を与えた。

 

※殺人の際の返り血がついた衣服→〔寸断〕4の『砂の器』(松本清張)。

※ばか者には見えない衣裳→〔裸〕4の『はだかの王様(皇帝の新しい着物)』(アンデルセン)。

※恋情の念がこもった着物→〔火事〕1の『振袖』(小泉八雲)。

※衣の裏の珠→〔玉(珠)〕2の『法華経』「五百弟子受記品」第8。

※皮膚をはいだと思ったら、衣服を脱がせただけだった→〔宇宙人〕1の『ねらわれた星』(星新一)。

 

 

【入れ替わり】

★1.瓜二つの兄弟姉妹が相談して、互いに入れ替わる。

『とりかへばや物語』  権大納言家の若君は女装して尚侍(ないしのかみ)となり、姫君は男装して中納言となって、内裏に出仕する。ところが男装の中納言は、宰相中将に女と見破られて懐妊し、出産のため宇治に身を隠す。それを機に若君と姫君は、「本来の男姿・女姿になろう」と相談して互いに入れ替わる。若君は中納言、姫君は尚侍となって、京に戻る。

『ふたりのロッテ』(ケストナー)  父子家庭のルイーゼと母子家庭のロッテは、夏の休暇村で出会い、自分たちが、両親の離婚の結果引き離された双子であることを知る。二人は相談して互いに入れ替わり、ルイーゼがロッテの家へ、ロッテがルイーゼの家へ帰る。そして、両親を再び結婚させることに成功する。

★2a.王子と乞食が衣服を交換したために、入れ替わってしまう。

『王子と乞食』(トゥエイン)  エドワード王子と乞食のトムは衣服を交換して、お互いが瓜二つであることに気づく。そのためエドワードは乞食と見なされて宮殿の外へ追いやられ、トムは王子と見なされて廷臣にかしづかれる。やがて国王ヘンリー八世が病死し、トムが国王となって戴冠式が行なわれる。そこへ乞食姿のエドワードが駆けつけ、「自らが真の国王である」と名乗る。トムは乞食に戻ることはなく、国王直属の臣下に任命される。

★2b.殿様と百姓が衣服を交換したために、入れ替わってしまう。

『絵姿女房』(日本の昔話)  百姓が、美人の女房を殿様に奪われる。百姓は女房の教えで桃を作り、殿様の屋敷へ売りに行く。それまで笑わなかった女房がはじめてにっこり笑うので、殿様は「桃売りの格好をすれば喜ぶのか」と思い、百姓と衣服を取り替える。桃売り姿の殿様はそのまま御殿から閉め出され、桃を売って歩く。百姓は新しい殿様になって、女房と一緒に楽しく暮らす(秋田県仙北郡田沢湖町田沢)。

*→〔笑わぬ女〕の物語と、何らかの関係があるであろう。

★3a.少年少女の身体と心が入れ替わる。

『転校生』(大林宣彦)  斉藤一夫の通う中学校のクラスに、斉藤一美が転校して来る。ある日、二人は誤って石段を転げ落ちたために、互いの身体と心が入れ替わってしまう。以来、斉藤一夫はオカマのごとくになり、斉藤一美は超おてんばになって、周囲を驚かせる。何ヵ月かが過ぎ、将来に絶望した斉藤一夫は呆然として石段を踏み外しかけ、斉藤一美が助けようと抱きとめて、再び彼らは転げ落ちる。二人の心はそれぞれもとの身体に戻る。

*二人の男の魂が入れ替わり、またもとに戻る→〔入れ替わり〕4bの『和漢三才図会』巻第71・大日本国「伊勢」。

★3b.少年少女の行動が入れ替わる。

『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「あの道この道楽な道」  のび太が「クロス・スイッチ」を押して、しずちゃんと人生のコースを交換する。しずちゃんは「ただいま」と言ってのび太の家へ帰って来る。そして「しずちゃんの所へ遊びに行こう」と言い、どこでもドアを通ってしずちゃんの浴室へ飛び込む。そこではのび太が裸で身体を洗っているので、しずちゃんは真っ赤になって「いやだァ」と叫ぶ。

★4a.二人の男の心が入れ替わる。

『スター・キング』(ハミルトン)  二十世紀半ばのニューヨーク。保険会社の社員ゴードンの心に、二十万年後の未来世界から、中央銀河系帝国王子ザース・アーンが語りかける。「過去探求のために、数週間、私の心と君の心を入れ替えたい」。ゴードンの心はザース・アーンの身体に入り、彼は帝国宇宙艦隊を率いて、暗黒星雲同盟と闘う。一方、ザース・アーンは保険会社の仕事をやり通すことができず、仮病をつかって休んでしまった。

*金持ち老人が、貧しい少年と心を交換する→〔若返り〕8の『未来ドロボウ』(藤子・F・不二雄)。

『列子』「湯問」第5  心が強く気の弱い男と、心が弱く気の強い男が、名医扁鵲(へんじゃく)に治療を受けた。扁鵲は二人の胸を断ち割って、心を交換する。二人はそれぞれの心に従って家へ帰るので、家人たちは「別人がやって来た」と思った。

★4b.熟睡する二人の男の魂が入れ替わる。

『和漢三才図会』巻第71・大日本国「伊勢」  昔、当地(伊勢国)の人と日向国の旅人が、長源寺(伊勢国安濃郡)の堂の庇(ひさし)に暑を避け、二人とも熟睡した。日暮れになり、ある人がにわかに呼び起こしたところ、両人はあわてて目を覚ましたので、魂が入れ替わってしまった。各々、家に帰ったが、他人扱いされた。二人は再び長源寺へ来て眠ると、魂がまた入れ替わり、元のようになった。諺に『伊勢や日向の物語』(*→〔火葬〕2)というのは、これである。

*少年少女の心が入れ替わり、またもとに戻る→〔入れ替わり〕3aの『転校生』(大林宣彦)。

★4c.同時に死んだ二人の男の魂が入れ替わる。

『和漢三才図会』巻第71・大日本国「伊勢」  推古天皇三十四年(626)、伊勢国の佐伯小経来(さえきのこふく)と日向国の依狭晴戸(よさむのはれと)が同日に死んで、共に冥府へ赴いた。両人の寿命はまだ尽きておらず、冥使が彼らを故郷へ戻すが、魂を入れるべき身体を間違えてしまった。両家の子が「これは父ではない」と言うので、小経来は日向へ、晴戸は伊勢へ行き、名前も替えた(*→〔火葬〕2の『伊勢や日向の物語』の異伝)。

★5.二軒の家の住人が入れ替わる。

『三軒長屋』(落語)  三軒長屋の真ん中に、質屋伊勢勘の妾が住む。両隣は、鳶(とび)の頭(かしら)の家と、剣術の先生の家なので、若い者が大勢出入りして、たいへん騒がしい。伊勢勘が「両隣とも追い出してやろう」と思っていると、両隣が「引っ越します」と言ってきた。伊勢勘は喜んで、転宅費用を五十両ずつ与える。引越し先を聞いてみると、鳶の頭が剣術の先生の家へ、剣術の先生が鳶の頭の家へ引っ越すのだった。

『笑府』巻6D「好静」  閑静を好む男がいたが、その両隣りは銅職人と鉄職人で、たいへんやかましかった。男は「あの二人が引っ越してくれる日が来たら、ご馳走をしてやりたい」と言う。ある日、二人が「引っ越す」と言ってきたので、男は喜んで二人を饗応する。もてなしが終わってから、男が引越し先を尋ねると、二人は「私は彼の家へ、彼は私の家へ」と答えた。

『嫁ちがい』(落語)  長屋で一軒おいて両隣りに住む二人の男、甲と乙が、同じ晩にそれぞれ嫁を迎える。ところが手違いで、甲に嫁入るべき女が乙の家へ、乙に嫁入るべき女が甲の家へ来てしまう。一夜あけて甲と乙はそのことを知り、二人で相談する。甲「大変なことをしちまった。どうしよう」。乙「仕方がねえや。どっちの家も女房と畳建具つきにしておいて、お前が俺の所へ、俺がお前の所へ、引越ししよう」。

*『堤中納言物語』「思はぬ方にとまりする少将」も、嫁ちがいの物語である→〔取り違え夫婦〕

★6.四肢や内臓を取り替える。

『現代世界と禅の精神』(鈴木大拙)  鬼Aが旅人に飛びかかって、その四肢を抜き取った。鬼Bが旅人を気の毒に思い、死人の四肢を持って来て、もとのように補綴してくれた。鬼Aはさらに、旅人の頭や顔や内臓などを、すっかり引き抜いてしまった。鬼Bは、またいちいち、死体の頭や顔や内臓を持って来て、もとどおりにしてくれた。鬼Aと鬼Bは、旅人の抜き取られた手足や内臓を食べ尽くして、どこかへ消えて行った→〔アイデンティティ〕1

 

※月と太陽が入れ替わる→〔太陽と月〕4の月と太陽の伝説。

※対立する二大国の思想が入れ替わる→〔相打ち〕4の『秘密兵器』(ブッツァーティ)。 

※二つの裁判の陪審員を入れ替える→〔裁判〕7の『アンタッチャブル』(デ・パルマ)。

 

 

【入れ子構造】

★1a.入れ子構造の人間たち。

『続斉諧記』(梁・呉均)2「腹の中の恋人(陽羨鵞籠)」  旅で道連れになった男が、口の中から、酒食の入った盆・箱と、若い女とを吐き出す。男が酔って眠ると、女は口の中から愛人である青年を吐き出す。青年はまた口の中から自分の恋人を吐き出す。しばらくして青年が恋人を呑みこみ、女が青年を呑みこみ、男が女と食器類を呑みこんで、去って行く〔*類話である『西鶴諸国ばなし』巻2−4「残る物とて金の鍋」では構造が単純化されており、仙人が酒食と美女を吐き、美女が恋人の若衆を吐くが、若衆は何も吐き出さない〕。

★1b.入れ子構造の人間たちの正体。

『太平広記』巻368所引『玄怪録』  北周の時代(六世紀)、居延部落の長・勃都骨低の邸に、数十人の芸人が訪れた。彼らは、背の高い者が低い者を呑み込み、肥った者が痩せた者を呑み込み、互いを呑み合って二人だけが残る、という芸を見せた。次いで彼らは、呑み込んだ者を吐き出し始めた。吐き出された者がまた一人を吐き出し、次々に人を吐き出して、人数がもとにもどった。彼らは人間ではなく、その正体は数多くの皮袋だった。  

★2.入れ子の鍋。

『諸国里人談』(菊岡沾凉)巻1・1「神祇」筑摩祭  近江国筑摩の庄では、四月午の日に明神の祭りがある。村の女は、関係を持った男の数だけ土鍋を作り、板に並べ頭に載せて、祭りの庭を渡る。昔、淫婦がいて、大きな鍋一つを頭にいただき、関係を持った男の数だけの小鍋を、大鍋の中に入れ子にして人目を欺いた。しかし神慮にそむいたため淫婦は転び、多くの小鍋がこぼれ出て、恥をかいた。  

★3.入れ子構造の動物。

『異苑』77「狐の中から狐が出る」  男が一匹の狐を捕らえて腹を割くと、中からまた狐が一匹出てきた。その腹を割いたら、また狐が出た。その腹を割いて、ようやく臓物が出た。三匹の狐は不思議なことに、みな同じ大きさだった。

★4.入れ子構造の女性器。

『女体消滅』(澁澤龍彦)  中納言長谷雄は鬼から女を与えられ(*→〔待つべき期間〕2bの『長谷雄草子』)、八十日目の夜に女の下紐を解いて朱門(女性器)を見る。すると朱門の奥にまた朱門があり、稲荷の鳥居のごとく朱門がずらりと重なって、無限の入れ子構造になっていた。長谷雄は、自分の陽鋒(=男性器)で第一の朱門を突破しようと試みる。たちまち女体は消滅して水と化し、長谷雄は全身びしょぬれになった。

★5.入れ子構造の戯曲。

『呪われた戯曲』(谷崎潤一郎)  作家が妻を山中に連れて行き、自作の戯曲を読み聞かせる。その内容は、「作家が妻を山中に連れて行き、自作の戯曲(『作家が妻を山中に連れて行き、自作の戯曲を読み聞かせ、その後、妻を谷底へ突き落として、事故死のように見せかける』という内容)を読み聞かせ、その後、戯曲どおりに妻を谷底へ突き落として事故死のように見せかける」というものである。作家は戯曲を読み聞かせた後、戯曲どおりに妻を谷底へ突き落として、事故死のように見せかける。

★6.夢の中の夢の中の夢。入れ子構造の夢。

『神の書跡』(ボルヘス)  虜囚の「わたし」は、牢の床に砂が一粒落ちている夢を見る。夢を見るたびに砂は二粒、三粒と増えてゆき、やがて無数の砂粒で「わたし」は死にそうになる。目覚めても砂はある。誰かが「わたし」に、「汝は真に目覚めたのでなく、前の夢へと目覚めたのだ。その夢はまたもう一つの夢の中にある。無限に夢が重なるのだ」と告げる。

『三段式』(星新一『さまざまな迷路』)  宇宙を一人で航行する飛行士の退屈しのぎに、三段式の睡眠薬が開発された。刃物を持つ男たちに追われる夢を見て、ハッと目覚めると、戦場で敵軍に包囲されていた。しかしそれも夢で、そこから目覚めると、今度は大洪水が押し寄せて来る。それでもまだ夢の中であり、もう一度目覚めて、やっと現実の宇宙船内に戻れた。夢から目覚めること三度で、ようやく現実世界に帰還できるのだ。

『スマラ(夜の霊)』(ノディエ)  新妻リシディスとともに眠るロレンツォは、ギリシア時代の人物ルキウス(*→『黄金のろば』の主人公)になった夢を見る。そのルキウスは、馬に揺られつつ夢を見て、コリントス戦で死んだ友人ポレモンに出会う。ポレモンは、魔女メロエと夜の霊スマラに苦しめられる悪夢をルキウス(=ロレンツォ)に語る。うなされるロレンツォを、新妻リシディスが目覚めさせようと呼びかける。 

 

※入れ子構造の記憶→〔ミイラ〕2の『木乃伊(ミイラ)』(中島敦)。

 

 

【いれずみ】

★1.入れ墨の習俗。

『後漢書』列伝第85「東夷伝」  倭(わ)は、韓(朝鮮半島南部)の東南の大海中にある。倭の男は皆、黥面文身(げいめんぶんしん=顔や身体に入れ墨)して、その模様の位置や大小で、身分の尊卑の区別をしている。 

『魏志倭人伝』(『三国志』巻30・『魏書』30「烏丸鮮卑東夷伝」)に同記事があり、「昔、夏后(かこう)少康の子は、入れ墨をして大蛇の害から身を守った。倭の海人たちが入れ墨をして水に潜るのも、大魚や水鳥を威圧するためだ」と記す。

『古事記』中巻  神武天皇がイスケヨリヒメを皇后に望んだので、大久米命がイスケヨリヒメに会ってその旨を伝えた。イスケヨリヒメは、大久米命の目の周囲の入れ墨を見て、「あめつつ ちどりましとと など黥(さ)ける利目(とめ)」(入れ墨をして、鳥のように鋭い目をしているのはなぜ?)と問うた。大久米命は、「媛女(をとめ)に ただに逢はむと 我が黥ける利目」(乙女にじかに逢いたいと思い、入れ墨をして鋭い目にしました)と答えた。イスケヨリヒメは「帝にお仕えしましょう」と言った。

『日本書紀』巻12履中天皇5年(404)9月18日  履中天皇が淡路島へ狩りに出かけ、河内の馬飼部(うまかひべ)らが供をした。その時、馬飼部らの目の入れ墨の傷が、まだ治っていなかった。すると、島におられる伊奘諾(いざなき)神が、祝部(はふりべ)に神がかりして、「血の臭さが堪えられぬ」と仰せられた。このことがあって後、馬飼部への入れ墨を廃止した。

★2.罪人に入れ墨をほどこす。

『水滸伝』百二十回本  宋江は妾の閻婆惜を殺したため、捕らわれて、双頬に金印(いれずみ)された。彼は配流先の江州で、酒楼の壁に「不幸にして双頬に刺文(しぶん=いれずみ)され、なんぞ堪えんや配されて江州に在るに・・・・・・」の詩を書きつけた(第39回)。後に宋江は、神医安道全の治療を受けて、いれずみを消した(第72回)。 

『南総里見八犬伝』第9輯巻之5第100回〜巻之9第109回  蟇田素藤は浜路姫との婚姻を望んで断られたため、里見家に戦いを挑んだ。しかし犬江親兵衛に捕らえられ、素藤は額に十文字の黥(いれほくろ=入れ墨)をされて追放された。黥ゆえにすぐ罪人とわかってしまうので、彼は宿を求めることもできず、川辺に繋ぎ舟があるのを見つけて、その中で一夜を明かした。

『日本書紀』巻12履中天皇元年(A.D.400)4月  履中天皇は、阿曇連(あづみのむらじ)浜子を反逆罪で捕らえた。天皇は、「本来なら死罪に処すべきところだが、恩恵をもって死罪を免じ、墨(ひたひきざむつみ=入れ墨の刑)を科す」と告げ、その日のうちに、浜子の顔に入れ墨をした。 

★3.入れ墨・刺青を隠す。

『左の腕』(松本清張)  六十歳近い卯助老人は、十七歳になる娘おあきとともに、料理屋松葉屋に奉公していた。卯助は、若い頃は「蜈蚣(むかで)の卯助」と呼ばれた前科者で、左腕の肘の下に、四角い桝形の入れ墨がある。彼は白い布を巻いてそれを隠し、「醜い火傷跡があるのだ」と言っていた。しかし松葉屋に押し込み強盗が入った夜、卯助は、戸締りに使う樫の棒をふるって賊どもを叩き伏せ、自分の素性を明かした。

『夜叉』(降旗康男)  修治(演ずるのは高倉健)はミナミのやくざで、何人もの男を殺した、という過去がある。十五年前に彼は足を洗い、結婚して北陸の漁村の漁師となった。背中一面に、色あざやかな夜叉の刺青があるので、修治は人前では裸にならなかった。しかし、チンピラやくざ(ビートたけし)が包丁をふりまわして暴れるのをおさえようとした時、包丁が修治の服を切り裂き、刺青を皆に見られてしまった〔*彼はチンピラやくざの件で、ミナミのやくざの抗争にまきこまれそうになるが、無事に帰って来る。妻が彼を出迎える〕。

★4.刺青の絵が動き、物語になる。

『刺青の男』(ブラッドベリ)「プロローグ」  九月上旬の昼下がり。ウィスコンシン州を徒歩旅行中の「わたし」は、丘の上で、全身を色鮮やかな刺青に覆(おお)われた老人と出会った。黄色の牧場、青い小川、銀河、太陽、惑星、人間たち、・・・・・・。一つ一つの刺青は、それぞれ独立した絵画であった。「夜になると絵が動くんだ」と老人は言った。日が沈み、月明かりの中で、刺青の絵は一つ一つ順番に動き出し、物語を語り始めた〔*『万華鏡』『ロケット・マン』『火の玉』など、十八の物語が語られる〕。

★5.美女の背中一面に彫られた刺青。

『刺青殺人事件』(高木彬光)  野村絹枝の背中一面には、色鮮やかな「妖術師・大蛇丸」の絵模様が彫られていた。絹枝の情夫が、絹江の双子の妹・珠枝を殺し、死体をバラバラにして、胴体部分を濃硫酸で消滅させる。そして、珠枝の頭部、二本の腕、二本の脚を、絹江の家の浴室に置く。絹枝本人は、行方をくらます。警察は、「何者かが絹枝を殺し、浴室で解体して、刺青の彫られた胴体を持ち去った」と考えた。  

*「胴体なしの死体」は、→〔首のない人〕1の『今昔物語集』巻10−32など、→〔首のない人〕2の『エジプト十字架の謎』(クイーン)など、→〔首のない人〕3の『棠陰比事』127「従事函首」などの、「首なし死体」の物語の応用編、といってもよいであろう。

*美女の身体に、女郎蜘蛛の絵模様を彫る→〔針〕7bの『刺青』(谷崎潤一郎)。

 

 

【入れ目】

★1.義眼の中に紙片を隠す。

『豹(ジャガー)の眼』(高垣眸)  怪人ジャガーは、インカ帝国の財宝の隠し場所を知ったが、その正当な相続者はモリー(日本人黒田大佐とインカ帝国最後の王女の間に生れた杜夫少年)だったので、ジャガーはモリーを殺そうとする。モリーは、少林寺拳法の達人張爺(チャンエー)や美少女錦華(きんか)と力を合わせて、ジャガーを捕らえる。ジャガーの右眼はガラスの義眼で、彼はその中に、財宝のありかを記した紙片を隠していた。

*テレビ映画版『豹(ジャガー)の眼』では、モリーはジンギスカンの子孫→〔三つの宝〕4

『水晶の栓』(ルブラン)  ドーブレックは、政界の疑獄事件に関わった人々のリストを手に入れ、それを用いて恐喝を繰り返し、代議士の地位を得た。リストを失えば身の破滅なので、ドーブレックはリストを小さく折りたたみ、ガラス製の義眼の中に隠しておく。その秘密を知ったルパンは、ドーブレックのサングラスをむしり取り、親指を彼の左目につっこんで、義眼をえぐり取った。 

★2.他人の義眼を飲み込んでしまう。

『義眼』(落語)  義眼の男が寝る前に義眼を外し、湯飲みの水に漬けておく。別の男が、暗闇の中で湯飲みの水を飲み、知らずに義眼を飲み込んでしまう。義眼は男の肛門に詰まり、そのため男は便通が止まって高熱が出たので、医者に診察を請う。医者は腹中鏡(ふくちゅうきょう)で男の肛門をのぞき、悲鳴をあげる。「向こうからも、誰かがこっちをのぞいている!」。

★3.義眼に針を刺して、人を驚かす。

『針』(遠藤周作)  女子学生幸子の見ている前で、老人と青年がお互いの片眼を賭けて勝負をする。タバコを、灰を落とさずにどれだけ長く吸えるかという勝負で、老人が負ける。青年は「約束だから」と言って、老人の左眼に針を突き刺す。幸子は悲鳴を上げる。実は老人の左眼は義眼で、これは幸子を驚かすために、老人が考えた悪趣味ないたずらだった。

★4.景清の目を入れてもらう。

『入れ目の景清』(落語)  病気で目のつぶれた勝五郎が、清水の観音様へ百日参りをする。百日目の夜、観音様が現れて、「昔、平家の悪七兵衛景清が、両眼をくり抜いて清水寺へ捧げた。その景清の目を貸してつかわす」とのお告げがある。勝五郎は目が見えるようになり、その上、景清のような豪傑になった気がしてくる。彼は力試しに、往来の人々を殴って歩く。巡査が来て「何をする。気が違ったか」。勝五郎「目が違った」。

★5.ガラスの偽眼(いれめ)を死体にはめる。

『かいやぐら物語』(横溝正史)  秋の夜、「わたし」は保養地の浜辺を散歩して、一人の女に出会う。女は、この地の洋館で起こった、青年と令嬢の心中事件を語る。「薬を飲んで令嬢は息絶えましたが、青年は意識を回復しました。青年は令嬢の死体に化粧をほどこし、眼窩にガラスの偽眼を詰めて、寄り添いました。一年後、ミイラ化した青年と、白骨化した令嬢が発見されました」。いつのまにか、女の姿が消えたことに「わたし」は気づく。女のすわっていた砂の上に、二夥のガラスの偽眼が落ちていた。

★6.失った人間の目の代わりに、動物の目を入れる。

『犬の目』(落語)  目を病んだ男が、医者の治療を受ける。医者は男の両目をくりぬいて洗浄するが、犬がその目を食べてしまう。しかたがないので、医者は犬の目を男の眼窩に入れる。男は「夜でも昼と同様によく見える」と喜ぶ。しかし困ったことに、電信柱を見ると小便がしたくなるのだった〔*小便をする時に片足を上げねばならない、というオチもある〕。

『ケルトの神話』(井村君江)「銀の腕のヌァザとブレス王」  ヌァザの城の門番は片目だった。医者が猫の片目を取って門番の眼窩に入れてやり、門番は両方の目が開いた。しかし困ったことに、夜になって人の目は眠るが、猫の目は起きて鼠をねらった。昼間は人の目は起きているが、猫の目は眠ってしまった。それでも門番は、「片目がないよりはましだ」と喜んだ。

『女人訓戒』(太宰治)  十九世紀のフランスで、眼科医が盲目の女に手術を施して兎の目を入れた。その結果、女は猟夫を見ると逃げ出すようになった。これは、兎の目が女を兎にしたのではなく、女が兎の目を愛する余り、彼女の方から自らすすんで兎に同化したのである。女性には、このような肉体的倒錯が、非常にしばしば見受けられる→〔狐つき〕6

★7.動物の目では役に立たないので、人間の目を取り返す。

『いじわるな妖精』(チェコの昔話)  おじいさんが、いじわるな妖精たちによって、両目をくり抜かれた。若者ヤネチェクが妖精たちをこらしめ、一人の妖精がおじいさんの目を返す。しかしおじいさんは「これはわしの目ではない。見えるのはフクロウばかりじゃ」と言う。二人めの妖精はオオカミの目、三人めの妖精はカワカマスの目を返すので、ヤネチェクは怒る。三人めの妖精は泣いてあやまり、おじいさんの本物の目を返した。

★8.着脱自在の目。

『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー)「海の物語」第10話  月の住民(*→〔月旅行〕4)の目玉は、好きなように取り付け・取り外しができる。顔につけても掌につけても、視力は変わらない。目を失ったとか損傷した場合には、他の目玉を買ったり借りたりして使えばよい。目玉商売人も多い。緑色の目が流行したと思うと、たちまち黄色の目が主流になるという具合で、目まぐるしい。

 

 

【因果応報】

★1.他に対して行なった善行・悪行が、後に同じような形で自分の身にふりかかる。

『黄金伝説』119「洗者聖ヨハネ刎首」  州総督ユリアノスが教会から聖器を奪ってその中に小便をし、神を冒涜する言葉を発した。たちまち彼の口は尻に変わり、以後口で用を足さねばならなくなった。

『源氏物語』「若紫」「若菜」下  光源氏は、父桐壺帝の若い妻藤壺を恋し、彼女との間に男児をもうけた。男児は桐壺帝の子として育てられ、やがて帝(冷泉帝)となった。それから三十年後、源氏の若い妻女三の宮は柏木とあやまちを犯し、薫が生まれた。源氏は、薫が柏木の子であることを知りつつも、自分の子として育てねばならなかった。

『今昔物語集』巻9−23  潘果が羊を盗む時、鳴き声を聞かれぬよう羊の舌を抜いて捨てた。一年後、彼の舌はしだいに欠け落ちて行き、遂には消え失せた。

『西遊記』百回本第39回  烏鶏国王が、文殊菩薩の化身である僧を縛り、三日三晩堀の水に漬けた。後に文殊菩薩の乗用の獅子が道士に変身して烏鶏国王を殺し、死体を井戸に落とし三年間水漬けにして、報復した〔*ただし烏鶏国王は、孫悟空の力で蘇生する〕→〔息が生命を与える〕2

『真景累ケ淵』(三遊亭円朝)  新五郎は質屋で働き、女中のお園に恋着する(*→〔金貸し殺し〕1)。ある年の十一月二十日、彼は「思いを遂げよう」と、物置の藁の上に彼女を押し倒すが、藁の下に押切りの刃があったので、お園は死んでしまった。逃亡した新五郎は、二年後、捕手に追われて、屋根から空地の藁の上へ飛び下りる。そこには押切りがあり、新五郎は足を傷つけ捕らえられた。その日は、お園の三回忌の祥月命日だった。

『日本霊異記』上−16  大和国の男が兎を捕らえ、生きながらその皮をはいだ。まもなく男は、身に毒瘡ができ皮膚が爛れくずれて、苦しみつつ死んだ〔*『今昔物語集』巻20−28に類話〕。

『日本霊異記』上−19  山背国の自度僧が、『法華経』を誦す乞食をあざけり、わざと自分の口をまげて乞食の口まねをした。たちまち自度僧の口はゆがみ、医師を呼んだが、ついに治らなかった〔*『三宝絵詞』中−9に類話。『日本霊異記』中−18では、俗人が高麗寺僧栄常の口まねをしたため、口がゆがむ。『今昔物語集』巻14−28では逆に、僧栄常が乞食僧のまねをして、口がゆがむ〕。

*ベルトラン・ド・ボルンは、英国王父子を二つに分けて互いに反目させたが、死後その報いで、首と胴体を二つに分けられた→〔首〕6の『神曲』(ダンテ)「地獄編」第28歌。

*無実の者の頸を切った武士は、一年後に自らも頸を刎ねられた→〔同日の死〕6の『沙石集』巻9−8。

*妻が、自動車事故をよそおって夫を殺したが、後に妻自身も自動車事故で死んだ→〔夫殺し〕1の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(ヴィスコンティ)。

★2.前世で他に対して行なった善行・悪行が、現世で同じような形で自分の身にふりかかる。

『旧雑譬喩経』巻上−27a  昔、寒い北方の地に貧しい老婆がいた。その地に住む仙人たちは、冬が来ると、皆、南方へ移住した。老婆は一人だけ居残って、仙人たちの持ち物を預かり、春に皆が戻って来ると、預かった物を間違いなく持ち主に返したので、仙人たちは喜んだ。その功徳で女は、「物をなくすことがない」という福に恵まれて現世に生まれ変わった→〔指輪を捨てる〕2

『今昔物語集』巻2−5  仏が某家で六日間供養を受け、七日目に帰ろうとした時、暴風雨になった。主人が「今日は留まり給え」と請うと、仏は「前世で私は六日間汝の世話をしたが、七日目に汝は寒さで死んだ。それゆえ私は今、六日間だけ汝から供養を受けた。これ以上は留まれない」と教えた。

『今昔物語集』巻2−32  前世で修行者の腕を斬った天竺の王は、現世では僧となって賊に腕を斬られた。

『今昔物語集』巻3−14  御炊(みかしき=すいじ)の女が、僧に米を供養した。その時、女は、僧の容貌の醜いことを罵った。女は、僧に供養をした功徳で王女に転生したが、僧の醜さを罵ったために、「金剛醜女」と言われるほど醜い容姿に生まれた→〔醜女〕4

『今昔物語集』巻3−28  仏(釈迦如来)は一切の病を遁(のが)れているはずなのに、八十歳で涅槃に入る時、背中の痛みをおぼえた。仏は過去世で鹿の背を打ったことがあり、その報いで今、背中が痛むのであった。

*前世で笠を与えたゆえ、現世で天蓋→〔笠(傘)〕1aの『今昔物語集』巻2−22。

*前世で衣を与えなかったゆえ、現世で裸→〔裸〕6bの『今昔物語集』巻4−14。

*前世で母を飢え死にさせたゆえ、現世で飢え死に→〔飢え〕5の『沙石集』巻1−7。 

★3.前世からの因果が現世で果たせなければ、来世へ持ち越される。

『子不語』巻6−131  湛一和尚が弟子僧たちに語った。「前世で屠殺人だった男が、罪の償いと救いを求めて豚に転生した。わしは、刀によって彼の悪業を解こうとしたが(*→〔豚〕3a)、愚かなお前たちがそれを妨げた。そのため、豚はこのあと人間に転生して、極刑を受けることになる」。三十年後、清貧の官吏が無実の罪で、凌遅の刑(身体の各部をバラバラにされる刑)に処せられた。 

★4.現世で行なった善行・悪行に対して、その十倍の報いを冥界で受ける。

『国家』(プラトン)第10巻  死者の魂は冥界の裁判官たちによって裁かれ、善悪ともにその報いを受ける。悪人は地下界へ向かう。彼らへの刑罰の執行は、次のとおりである。人間の一生を百年とみなし、生前に行なった悪事に対する百年分の処罰を、十度繰り返すのである(すなわち、処罰の期間は一千年)。これは、各人が犯した罪の十倍の償いをするためである。これとは逆に、善人であれば、天上界での一千年にわたる数々の幸福とよろこびが与えられる→〔くじ〕1

★5.偶発的な事故のばあいにも、因果応報の理がはたらく。

『日本霊異記』下巻序文  山の比丘が、烏に飯を施していた。ある時、比丘が何気なく投げた石が、烏の頭を割ってしまった。烏は死んで猪に生まれ変わり、石をかき分けて食物をさがす。石が転がり落ちて比丘に当たり、比丘は死んだ。

★6.親の因果が子に報う。

『捜神後記』巻2−6(通巻17話)  周という男は、子供の頃いたずら心から、燕の雛三羽に茨(いばら)の枝を食べさせ、死なせてしまった。周はそのことを忘れたまま成人し、結婚して三つ子をもうけた。三つ子は二十歳近くになっても、声は出るのに言葉をしゃべれなかった〔*しかしある日、旅僧の示唆で周は昔の悪行を思い出し、そのとたんに三つ子は人語を話し出した〕。

 

 

【隕石】

 *関連項目→〔流れ星〕

★1.隕石が地上へ落ちる。

星が落ちた所(沖縄の民話)  沖縄島の最北端に辺戸(ふいどう)という村があり、さらにその北に宇座原地(うざばるぢい)と呼ぶ土地がある。大昔、この宇座原地に星が落ちて、地面をゆり動かした。辺戸の村人たちが行って見ると、大きな石が地面にめり込み、窪地ができていた。窪地は卵形で、深さ二メートル余、長い所が十四メートル余、短い所が九メートル余の広さだった。この穴を落星窪(うていふしくぶ)と言っている。

星高山の伝説  星高山は標高四百七十メートルで、島の星山とも呼ばれる。貞観十六年(874)九月八日、流星(隕石)がこの山に落ちた。鴨に似た形の隕石で、高さが六十センチ、幅が三十センチ〜十センチである。今も山腹の冷昌寺に祀られている。小石で叩くと、金鉄のような音がする(島根県江津市)。

*星高山の伝説には別伝もある。昔、江津がまだ海だった頃、天から火の雨が降り、一個の火の石が水中に落ちて光を放った。火の石=星は、ある人の夢枕に立って「私をどこかに祀れ」と告げた。早速祀ると、また夢枕に立って「ここは気に入らない」と言う。こんなことが幾度か繰り返され、最後に落ち着いたのが冷昌寺だった。

 

※月の一部が無数の隕石となって、地球へ落下した→〔月〕5の『柔らかい月』(カルヴィーノ)。

 

 

【隠蔽】

★1.悪事を、より大きな悪事によって隠蔽する。

『英雄伝』(プルタルコス)「アルキビアデス」  アルキビアデスが、大金を払って買った犬の尾を切り落とした。「人々が非難している」と知人が忠告すると、アルキビアデスは「私のねらいは、アテナイ市民がこういうことを話のタネにして、私のもっとひどい悪事を語らずにいてくれることなのだ」と言って笑った。

*盗みの隠蔽→〔大晦日〕4の『大つごもり』(樋口一葉)。

★2.音・声を、より大きな音・声によって隠蔽する。

『ギリシア神話』(アポロドロス)第1巻第1章  生まれるとすぐ父クロノスに呑みこまれるはずであったゼウスは、母の手でクレタの洞窟中に隠された。幼いゼウスの泣き声がクロノスに聞こえぬよう、クーレースたちが、槍で盾を打ち鳴らして大きな音をたてた。

『曾根崎心中』(近松門左衛門)「天満屋」  お初・徳兵衛は心中の道行をすべく、深夜、天満屋を抜け出ようとする。しかし車戸の音が気がかりで開けかねていると、下女が闇の中で火打石を打つ。その音に合わせて二人はそろそろと戸を開け、人々に気づかれずに外へ出ることができた。

『ひぢりめん卯月の紅葉』(近松門左衛門)中之巻   古道具屋長兵衛の娘お亀と結婚して婿に入った与兵衛は、舅・長兵衛と不仲になる。たまたま蔵の中に閉じこめられた与兵衛は、蔵の外で心配するお亀の思案で、在所へ落ちのびることとする。芝居のふれ太鼓の大きな音にまぎらせて、与兵衛は蔵の壁下地の大竹を切り破る。

*銃撃の音を、シンバルの鳴る音でかき消す→〔暗殺〕2bの『知りすぎていた男』(ヒッチコック)。 

*琴の音が声をかき消す、逆に、声が琴の音をかき消す→〔琴〕4の『アルゴナウティカ』(アポロニオス)第4歌など。

*叫び声の理由の隠蔽→〔首のない人〕1の『七賢人物語』「妃の語る第三の物語」。

★3.強い金色光が、金の簪(かんざし)を隠蔽する。

『今昔物語集』巻4−7  波斯匿(はしのく)王の妹が幼少の頃、仏が彼女の家を訪問した。ところが、仏が帰った直後に金の簪がなくなり、七日を経てようやく、寝台の上で見つかった。それは、仏身の放つ金色光が七日間室内に残留していたため、その光に消されて簪が見えなかったのだった。

*銀世界に落ちた銀の手斧→〔斧〕7の『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー)。

★4.死に関わる臭気を、より強い臭気で隠蔽する。

『隠居した絵具屋』(ドイル)  引退した老絵具師アンバリイが、二十歳年下の若い妻とその不倫相手を金庫室に閉じこめ、ガスを充満させて殺した。近所の人がガスの臭気に気づかぬように、アンバリイは強いにおいのするペンキで、家の塗り替えをした。

『史記』「秦始皇本紀」第6  始皇帝は地方を巡遊中に崩御した。丞相李斯は、天下に変乱が起こることを恐れて、都咸陽に帰着するまで始皇帝の死を秘した。遺骸を乗せた車から臭気が漂ったので、臣下の車に塩づけの魚を一石ずつ積み、その臭気で屍臭を隠蔽した。

★5a.一つの殺人死体のまわりに大勢の戦死者を配置して、殺人行為を隠蔽する。

『折れた剣』(チェスタトン)  イギリスの将軍セント・クレアは、敵対するブラジル軍に情報を売って金を得、それを知った部下の少佐を殺す。ただちに将軍は、ブラジルの大軍への突撃命令を出し、大勢のイギリス兵の死体の山を築いて、自らの犯した殺人を隠蔽する〔*→〔手紙〕2aの『サムエル記』下・第11章が発想源か?〕。

*ガラスの兇器のまわりを、窓ガラスの破片でおおってカムフラージュする→〔ガラス〕8の『兇器』(江戸川乱歩)。

*逆向きのカラーのまわりを、さまざまな逆向きの物で囲む→〔逆さまの世界〕8の『チャイナ・オレンジの秘密』(クイーン)。

*複数の人物を殺すことによって、本来の殺人目的を隠蔽する→〔ABC〕3の『ABC殺人事件』(クリスティ)。

*殺害死体を、病死者の棺の中に押し込んで埋葬し、殺人行為を隠蔽する→〔棺〕3aの『雁の寺』(水上勉)など。

★5b.言いにくい報告事項の前後に別のことがらを述べて、目立たなくする。

『サザエさん』(長谷川町子)朝日文庫版・第29巻110ページ  学期末にカツオが波平の部屋に来て、「野菜上がった、風呂代上がった、株は下がった」と言い始める。波平は「何を言っとるんだ?」とけげんな顔をする。カツオはかまわず「米代上がった、ボーナス下がった、成績下がった、運賃上がった」と言い終えて部屋を出、「言いにくい報告もどうやらすんだ」と、ホッとする。

★6.殺人を駆け落ちに見せかける。

『大いなる眠り』(チャンドラー)  富豪の娘カーメンが、姉ヴィヴィアンの夫ラスティを射殺した。ヴィヴィアンはラスティの死体を隠し、事後策を賭博場経営者エディに相談する。エディの妻は以前からラスティとの仲を噂されていたので、エディはそれを利用し、妻を郊外に軟禁する。男一人が行方不明になれば、殺されたかと思われるが、男女二人が姿を消せば、駆け落ちしたと見なされやすいからである。

*誘拐・幽閉を隠蔽する→〔行方不明〕4の『半七捕物帳』(岡本綺堂)「狐と僧」。

★7.女性スパイの存在を隠蔽するため、架空の男性スパイをでっち上げる。

『北北西に進路を取れ』(ヒッチコック)  国家機密を他国に売る男バンダム一味の組織を探るため、CIAが美女イブ(演ずるのはエヴァ・マリー・セイント)をスパイとして送り込む。CIAは、彼女の正体をバンダムに悟られぬよう、「キャプラン」という実在しないスパイをでっち上げ、キャプランの名前でホテルに宿泊手続をしたりして、スパイのキャプランが情報を盗んでCIAに送っているかのように見せかける。ところがバンダムたちは、偶然の間違いから、広告業者ロジャー(ケーリー・グラント)をスパイのキャプランだと誤認し、彼を殺そうとつけねらう→〔人違い〕2

 

※壁の穴をポスターで隠す→〔トンネル〕5の『ショーシャンクの空に』(ダラボン)。 

※死因の隠蔽→〔死因〕に記事。

 

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